2021年12月6日月曜日

「実用的な音楽」を切望する

前回、「実用的な音楽」云々と述べた。が、些か説明不足だったかもしれない。私が「実用」ということでいっているのは、「ほとんど誰も顧みない現代音楽」に対して「もっと演奏家や聴き手に広く受け入れられるような音楽」のことであって、必ずしも何かに具体的に役立つ音楽のことではない。

ほとんどの人が好まず、わからないような音楽を書いていれば、その良し悪しが問われることもあまりない。そもそも、そうした音楽は普通の人にとっては存在しないも同然だ。が、それではあまりに「もったいない」と私は思う。その気になれば(上記の意味での)「実用的な」音楽を書ける能力の持ち主が少なからずいるにもかかわらず、その能力が有効に活用されていないのだから。

たとえば日本の場合、合唱や吹奏楽の分野では「実用的な音楽」はそれなりに書かれ、受容されているようだが、他の分野でも「教育目的」以外でそうしたものがつくられることを私は切に願うものだ。なんとなれば、そこに西洋芸術音楽が生き残るための1つの道があるように思うからだ。

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新たに生まれる作品に感動し、同時代人として出会えた喜びをかみしめたい――西洋芸術音楽の愛好者でそう思っているのは私だけではあるまい。そして、そうした作品、「現代音楽」ではなく「現代の音楽」を生み出す可能性を持つ作曲家はそれなりにいるはずだ。それゆえ、私は「出会い」を待ち続けている。

ところで、かようなことを言う私がかつての「現代音楽」を楽しんでいるのは矛盾だろうか? 自分としてはそうではないと考えている。まず、そうした音楽を私はあくまでも「もう済んでしまった歴史上の出来事」として楽しんでおり、そこに現在なりのアクチュアリティーを感じているわけではない。が、その一方で、そこにあるかもしれない、まだ顕在化していない(言い換えれば、作曲家自身も気づいていないような)別の可能性(ただし、これからの「現代音楽」にではなく「現代の音楽」に活かせるようなもの)を聴き取ろうともしている――などと言ってはみたものの、結局は昔の「現代音楽」が好きなのだ。が、だからといって、今、その延長線上で何かができるとは思わない――と、些かの寂しさを覚えつつ付言しなければならない(なお、さらに付言しておけば、私は何も今でも「現代音楽」の創作を続けている作曲家の存在を否定したいわけではない。誰しも自分の信じる道を行けばよいと思うからだ。ただ、自分はもはやそれにはつきあいきれないというだけのことである)。