2021年12月15日水曜日

鳥自体はどうでもよい

 メシアンの「鳥」に因む作品を聴くとき、私は別にそれが何の鳥の鳴き声であるかなどは一切気にしていない。というのも、鳥はあくまでも素材にすぎず、それを元に作られた音楽を聴いているからだ。作曲者はスコアにきちんと鳥の名を記し、場合によってはその鳴き声を文字で書き表し、こまごまとした解説をつけているが、スコアなどいちいち見ないで聴いている者にとっては、そうした作曲者の「入念さ」は意味を持たない。それはある面では一種のコンセプチュアル・アートだとさえ言えよう。

 が、それはそれとして私は今日もメシアンの《異国の鳥たち》を楽しく聴いた。音楽としてまことに魅力的であり、心身に喜びをもたらすものだからだ。そして、その際、この作品で作曲者のコンセプトがどう実現されているかなど、私にとってはほとんど全くどうでもよい。興味が持たれるのはあくまでも音楽のありよう自体に対してである。この聴き方は邪道だろうか?

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  音楽という芸術はその抽象性のゆえに、「現代音楽」に限らず良くも悪くもコンセプチュアルになりやすいところがあり、また、コンセプトと音楽の実際との隔たりが何かしら許される(ただし、これはよい作品の場合)ところがあるのかもしれない。