2021年12月2日木曜日

森本恭正×南博『音楽の黙示録――クラシックとジャズの対話』を読了

 ずっと読みたいと思っていた(が購う余裕のなかった)本がご近所図書館に入っていたので、すかさず借りてきた。それは森本恭正×南博『音楽の黙示録――クラシックとジャズの対話』(アルテスパブリッシング、2021年)である(https://artespublishing.com/shop/books/86559-238-2/)。読み始めたら面白くて、一気に読了してしまった。

南が記した「はじめに」には「読者の[……]うち一定数の方々は、不愉快な思いをし、お怒りになるかもしれません。が、一方で[……]心の裡で喝采してくださる方々もいるはずです」とあったが、私は「不愉快になる」こともなければ、「喝采」するほど興奮もせず、しかしながら、至極まっとうなことが書かれているなあと思いつつ、心穏やかに楽しく読んだ次第。

もしかしたら森本の名著『西洋音楽論――クラシックに狂気を聴け』(光文社新書、2010年)をすでに読んでいなかったならば、この『音楽の黙示録』には不愉快なることはなかったにしても、いろいろと驚かされ、興奮したに違いない。が、とにかく一気に読ませる本なのは確かであり、2人の音楽家の文章による「プレイ」は何とも生々しい。こうした本は若者にこそ大いに読んで欲しいところだが、日頃関わっている学生たちならば同書にどんな感想を持つだろうか。

(なお、本来ならば、同書の内容に対して具体的な感想、建設的な批評を述べるべきなのだが、それは少なからず問題が重なる『ミニマ・エステティカ』の中でいずれ示すことにしたい。まあ、そのためには書き上げて、何とか出版にこぎつける必要があるわけだが……)

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私はあるときから自分(を含む多くの日本人)が身につけた西洋音楽はクレオール語のようなものだと思っている。また、そのことを別に恥じる必要も感じていない。西洋(語)文化圏からは遠く離れた地に生まれ育った者にとって、そうなるのはいわば必然なのだから。そして、日本で生まれ育ち、積極的に西洋人と交わることも(その必要も感じずに)この国の中だけで生きていく人にとって、西洋音楽はクレオール語のままで一向に差し支えないとも考えている(別に英語が話せなくとも日常生活に困ることはないのと同様に)。彼我の違いが気にならない人にとっては。

私にはその「違い」が気になる。ただし、そうなったのは数年前のことにすぎない(それからのち、たまたまご近所図書館で上記『西洋音楽論』を遅ればせながら読み、「ああ、やっぱり」と思った次第)。そして、いろいろ考えているうちに、これはまさに「音楽する人」にとって大切な問題だと確信するに到る。それゆえ、『ミニマ・エステティカ』でも1章を割いて論じるつもりだ。