私は何度か「現代音楽病」という語をここで用いているが、その意味を説明しておいた方がよかろう。それは「前衛信仰」と言い換えてもよいもので、つまりは音楽作品の内容以前にまずスタイルが「前衛」であることを創作の当然の前提とするイデオロギーのことである。これによれば、たとえばシェーンベルクとラフマニノフは全くの同時代人だが後者は「保守反動」として切り捨てられることになるし、また、前者の流儀であってもそれを20世紀後半の創作に用いた作品もやはり同様に遇されることになるわけだ。
今でこそそうした態度は1つのイデオロギーとして相対化できるが、20世紀半ばから90年代あたりまではそれはいわば「真理」のようなものであり、なかなかに抗いがたい(どころか、私も含む少なからぬ者にとっては、そもそも疑問の余地のない)ものだった(もちろん、初めからこのイデオロギーとは無縁の者や、早々にそこから離れた者もいたが、あくまでも少数派にすぎなかった)。
だが、そうした「前衛信仰」の呪縛も次第に解けてゆき、「現代音楽」はかつての輝きを失ってしまった。もちろん、以前に名作だとされた「現代音楽」作品のすべて無価値になったというわけではない。が、今や「前衛」をよしとした時代がそれら「名作」にはかせていた下駄を脱がせ、その時代が貶めてきた(相対的に)保守的な作品と同じ土俵で見直されるべきときがやってきたのである。
その結果、「名作」とされた「現代音楽」作品のうち少なからぬものが消えて行くことになろうが、中にはこれまで見えていなかった魅力や意味が姿を現す作品もあろうし、また、十分に評価されてこなかった作品に光があたる可能性もあろう。というわけで、これはこれで面白いことだと思うし、そうした吟味は「現代の音楽」の創作にとっても有意義であろう。