2022年1月4日火曜日

メモ(82)

  音楽作品を演奏する場合でも「構成力」は欠かない。いくら1つひとつの音、あるいは部分がきちんと演奏されていても、その繋がりがうまく組み立てられていなければ、説得力を持つ演奏にはならないからだ。それゆえ、演奏家といえども(必ずしも公表を前提としない)作曲を試みることには十二分に意義がある(どころか、そうした経験は不可欠だといってよい)。

 ところで、そうした「音楽の構成力」は他の分野の構成力と相関関係のようなものがあるのだろうか? たとえば、文章の構成力とではどうだろうか。もちろん、音楽の音と言語とでは勝手が異なるから、一流演奏家であれば誰も巧みな文章を書けるとは限らないだろう(作曲家には「読ませる」文章の書き手が少なくないようだが……)。が、音楽を巧みに構成して演奏できる人であれば、現時点で文章書きが苦手ではあっても、しかるべき訓練を積めば割とすぐに達者な文章を書けるようになるのだろうか? それとも、やはり両者は別物であり、そんなふうにはいかないのだろうか? また、「文章書き」ではなく「話術」の場合にはどうなるのだろうか? 

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 もちろん、自分で音楽を書かねばならない作曲家と、すにで書かれた楽譜がある演奏家とでは、必要な「構成力」のありようは些か異なっていよう。とはいえ、20世紀以降の西洋芸術音楽では分離してしまった両者の役割は元々は1人の音楽家が兼ね備えているべきものだったわけで、そうした時代の作品を現代の演奏家がこなすには作曲家としての「構成力」をある程度は身につけておくことは有益なはずだ。

 

 作曲家の「構成」は聴き手の耳の習慣や能力を見積もらねばならない。何度でも行きつ戻りつして読める(書かれた)文章とは異なり、音楽は一度始まったら後戻りはできないので、聴いてわからないような音楽は「紙の上」でいかに巧みに構成されていたとしても、できのよい音楽だとはいえない(もっとも、西洋に根強くあるプラトニズムの伝統には「紙の上での巧みな構成」を認めるようなところもあるが……)。

 とはいえ、音楽には「生」演奏しかありえなかった時代とは異なり、録音で何度でも音楽を聴き返せるようになった時代には、「わかりにくい」音楽であっても聴き手に受け入れられる可能性は増えたことだろう。ただし、その場合でも、聴き手を「なんだかよくわからないけれども、とりあえず最後までは聴いてみよう」と思わせ、かつ、「録音を繰り返して聴いてみたい」という気をさせる必要が作曲家にはあるわけで、それに成功した作品が「巧みに構成された」ものだということができよう。では、その最低の条件はどのようなものなのだろうか? これは探ってみたら面白かろう。