今日は大晦日。今年あったいろいろなことが思い返される。うれしいこともあれば悲しいこともあり、だが、トータルではさほど悪い年だったわけではないと思う。
心穏やかに来し方を振り返り、来る年を新鮮な気分で迎えるのにぴったりの音楽として、今年はこれがすぐに頭に浮かぶ:https://www.youtube.com/watch?v=CXwJEovFq_Q。
どうかお試しあれ。
今日は大晦日。今年あったいろいろなことが思い返される。うれしいこともあれば悲しいこともあり、だが、トータルではさほど悪い年だったわけではないと思う。
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どうかお試しあれ。
年末といえばクラシック音楽愛好者にとっては「第九」である。コロナ禍下では平時のようにはいくまいが、昨年よりは公演数は増えたのではなかろうか。
その「第九」だが、以前に音楽之友社から出ていたスコアには堀内敬三の訳詞も楽譜中に書き込まれていた。ということは、それで実際に歌っていた頃もあるということだろう。だが、私がそのスコアを購った少年時代(つまり、今から40年ほど前)にはアマチュアでも原語で歌うのが当たり前になっていた。そして、いつしかそのスコアも市場から姿を消し、「日本語による第九」は歴史の一コマになってしまっている。
とはいえ、これは些かもったいないと私は思う。カタカナっぽい発音で、言葉の意味もなんとなくしかわからないままに「気分」だけのドイツ語歌唱をするよりも、発音がしやすく、意味もよくわかっている日本語歌唱で第九に取り組むアマチュアがいてもよいのではなかろうか。そんな機会があれば、私も歌ってみたいと思う。
なお、言うまでもないが、原語で歌うのがいけないというのではない。それはそれで大いにけっこうなことだ。が、その場合にはドイツ語をある程度は学び、発音もきちんとした方がよかろう(意欲さえあれば、そして、それが楽しいと思えることであれば、年齢にはあまり関係なく人は学べるものである。出版社は発音指導のCDも付けた懇切丁寧な「第九攻略本」を出せば、それなりに売れるのではなかろうか)。すると「第九」がさらに身近な存在になり、いっそう楽しめるはずだ。
モーリス・メルロ=ポンティの名著『知覚の現象学』の邦訳には「転調」という語が出てくる。たとえば、「私がタイプの前に座るとき、私の手の下に一つの運動空間が拡がり、その空間の中で私は自分の読んだところをタイプに打ってゆくのだ。読んだ語は視覚空間の一つの転調であり、運動遂行は手の空間の一つの転調であって」(みすず書房版、第1巻、242頁)云々というふうにだ。
この「転調」と訳されている語は原語ではmodulationなのだが、私は何かしらそう訳することにひっかかりを覚える。それは音楽での「転調」のことを思うからだろう。ある曲で転調が起こるからといって、その前の部分との内容面での繋がりを必ずしも必要とせず、それまでとは全く異なる曲調になっても一向に差し支えない。ところが上記の引用文で言われている「視覚空間」と「運動空間」の間で生じるmodulationはそのようなものではない。そして、「転調」という語は多くの読者にやはり音楽での用法を想起させるだろうから、これは誤訳ではないにしても、あまり適切ではないのではなかろうか(文の意味からすれば訳語の「転」という部分は適切だと思うが、それが「調」という語と合わせるとどうしても音楽のことが想起されてしまうのだ)。無難な訳語は「変調」であろうが、これも十分に意を尽くせているわけではなく、ここは大胆に意訳した方がよいのかもしれない。
もっとも、メルロ=ポンティが(別な箇所でオルガン演奏の例を挙げていることを思えば)音楽からこのmodulationという語を借用した可能性もないではない。が、だとすると、彼が音楽での「転調」という語の意味を正確に理解していたとは言いがたく、やはりmodulationという語は別なふうに訳した方がよいと思う。こんなことを浅学の私が言うと、メルロ=ポンティ研究者から一喝されそうだが……。
+付記
ついでに言えばinstituionを「制度(化)」と訳することにも私は些か違和感を覚える。「制度」という語から普通に思い浮かぶ意味とメルロ=ポンティが言うinstituionには微妙にズレがあるように感じられるからだ。ただ、これは私個人の感覚に問題にすぎないのかもしれないが。
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メルロ=ポンティは絵画についてはあれこれ論じているが、音楽のことはあまり話題にしていない。やはり彼は「眼の人」なのだろう。
もし、彼がアドルノのような「耳の人」だったならば、その哲学はもっと違ったかたちをとっていたかもしれない。その場合、「眼と精神」ならぬ「耳と精神」では果たしてどのように語られることになっただろうか……(などと書いていたら、久しぶりにデュフレンヌの『眼と耳』が読みたくなってきた)。