2021年3月10日水曜日

『茶色の朝』

 『茶色の朝 Le matin brun』という短い物語がある。テキストが公開されているので、ご存じない方はまずご覧いただきたい:http://www.tunnel-company.com/data/matinbrun.pdf

一読すればその意味するところはすぐにおわかりいただけよう。まさに現在の状況にぴたりと合うものだ。

 私は不明にしてこの物語を知らなかったが、先日、その朗読に音楽をつけたかたちでの上演をインターネットで見て、いろいろと考えさせられた。それは大阪のオンガージュ・サロンの主催者でピアニストの呉多美さんの企画によるものだ(https://www.engage-salon.com/。残念ながら購入・視聴期間は過ぎてしまったが、いずれ再びこの動画が公開されることを期待したい。たぶん、興味を持つ方もいるだろうから)。

 この動画を見ながら、物語のあまりのリアルさとそれをいっそう強める音楽にすぐに引き込まれてしまった。まさに現在はそんな時代なのだから。だが、それに対して自分が何もできていないことに暗澹たる思いに襲われる。物語の終わりの方で「もっと抵抗すべきだったのだ」という台詞が出てくるが、それに対して瞬時に頭に浮かんだのは「だが、どうやって?」という台詞であり、まさに同じ言葉が語られるではないか! つまり、自分の中でも何かしら諦めにも似た気持ちがあったわけだ。が、それではいけない。「どうやって?」という問いをもっと積極的に問わねばならないのだ。

 ところで、この『茶色の朝』という題名の「茶色の brun」という語(これは仏語だが、英語や独語でも綴りはやや異なるものの意味は同じ)だが、「褐色の」と訳した方がよい語である。「褐色」とは、この場合、もちろんナチス突撃隊の制服の色であり、ナチス体制、ひいては全体主義を象徴する色である(独和辞典を繰るとbraunという語には「ナチの」という意味が載っている)。これを「茶色の」としてしまうと、ややトーン・ダウンしてしまうような気がするが、どうだろうか(これは邦訳だから生じる問題だが)。もっとも、物語では「茶色の犬、猫」が登場するわけで、これを「褐色の犬、猫」ではやや語感が悪くなるので、些か悩ましいことではある。

 ともあれ、「茶色の」世の中になることはまっぴらごめんだ。