昨日予告した通り、中野慶理先生(私は生徒だったわけではない――生徒になれるだけのピアノの演奏能力を持たないので……――が、音楽性のみならず人間性の面でも尊敬の念を込めてこう呼ばずにはいられない)のピアノ・リサイタル(於:いずみホール(大阪))の感想を述べることにしたい(以下、敬称略)。
演目は次の通り:
前半
R. シューマン:森の情景
F. プーランク:ナゼールの夜会
後半
F. リスト:ペトラルカのソネット第123番
:ピアノ・ソナタ ロ短調
以上である。実に巧み、かつ、面白い選曲だ。ここには2つの対照がある。1つは前半と後半の、もう1つは前半のシューマンとプーランクの。
まず、前半である。これを聴きながら、音楽自体とともにシューマンとプーランクの近さと遠さをも楽しませてもらう。シューマンの「フロレスタンとオイゼビウス」という2つの好対照をなす性格はこの《森の情景》でも健在なのだが、それがプーランクの《ナゼールの夜会》にも確かに聞こえる。が、シューマン作品の方は役者でいえば「没入型」の演技で観客を引き込むようなものであり、中野の演奏は見事に聴き手を音楽に没入させ、作品の世界を堪能させてくれた。他方、プーランクの演奏では「作品」という人形劇の人形の背後にいる「作曲家」という人形遣いの存在が透けて見えるような気がしたのみならず、その人形劇自体を演奏家が巧みに操って何ともシニカル、かつ、ユーモラスでコミカルな音の世界を現出させていたように感じられた。
続く後半のリストでは、まず〈ペトラルカのソネット第123番〉で中野はピアノによる「歌」を存分に味わわせてくれるとともに、聴き手の耳を「リストのモード」へと切り替えてくれた。《ソナタ ロ短調》は多くのピアニストが取り上げる作品だが、よい演奏に出会えることはまことに少ない。それだけ難しい――演奏技巧面もさることながら、音楽の組み立てという面で――作品なのだが、この日の中野の演奏=解釈=パフォーマンスはすばらしかった。
得てしてものものしく、そしてやたら「意味深」に弾かれることの多い序奏(そうした演奏の中にもすばらしいものはある。が、多くはない。なぜか? それは最初にその後の展開のハードルを上げてしまうものであり、それをうまくこなすには驚くべき高度な技量と音楽性が要求されるからだ)を中野はかなりあっさりと弾く。のみならず、第1主題もいくらか軽く流す。だが、音楽が進むうちに「なるほど」と思った。30分にも及ぶ長い「物語」で全曲の終わり近くに真の頂点をうまく築くための戦略なのだ、と。そのことは再現部の前後でも強く感じられた。ここもとにかくやたらに「劇的に」弾かれがちなのだが、中野はそうはしない。その後の音楽の劇的な進展のゆえにである。とにかく、他の場面でも主題や動機に多様な表現・表情を示させつつ、中野は実に見事に音楽を組み立ててゆき、最後の頂点とその後の静かな幕切れへと聴き手を導くのだ。リストがつくったこの壮大な「劇」の巧みな演出者、かつ、パフォーマーとして。
とにかく、最初から最後のアンコール――演奏者自身の編曲による静かな祈りの歌(曲名を失念してしまった。昨日のことなのに……)――に至るまで音楽を堪能させられるのみならず、いろいろなことを考え、感じさせられた充実のひとときだった。そして、こうした音楽を聴くと自分なりに生きる力と意欲がわいてくる。中野先生、どうもありがとうございました。