2021年3月3日水曜日

「成熟」と「喪失」

 「成熟」ということは必ずしも芸術家にとってよいことだとは限るまい。むしろ、それは何かの「喪失」を伴うこともある。たとえば、ある時期までの武満徹の作品にはよく言えば試行錯誤の跡、悪く言えば未熟さや不安定さがあったが、それが得も言われぬ緊張感や何か不思議な面白さをもたらしていたように思われる。ところが、やがて武満の書法は成熟して安定し、それで書かれた作品はなるほど実に巧みではあるが何の刺激もなくなってしまった。

 「緊張感」があった頃の武満作品は演奏がとても難しい。ぎりぎりのバランスの上で書かれた作品に演奏者がよけいなものを加えると、とたんに音楽のたがが外れて無残なことになる。そして、そんな演奏を聴くとため息が出るばかり。

 もっとも、武満の作品自体にそんなふうに演奏者を「誤解」させる要素があるのかもしれない。そこかしこに「甘い」旋律や和音が散りばめられているのだから。ただ、作品全体としては決してそうした「甘さ」に溺れず、緊張を保つように書かれているので(80年代以降はそうではなくなってしまったが……)、それを壊してしまうのはやはり演奏家の側の問題であろう(というわけで、やはり己の個性を誇示したい――このこと自体は何ら責められるべきことではないが――演奏家は80年代以前の武満作品を取り上げるべきではあるまい)。

 もっとも、以上に述べたことは、あくまでも武満の「成熟」を否定的にとらえる者の見方である。それゆえ、80年代以降の武満作品を肯定的にとらえる者にとっては、また違った見方があるのだろうし、それに異を唱えるつもりはない。