2021年4月14日水曜日

取扱い注意物としての芸術

 次の一節には一片の真理が含まれているように思われる。

 

  どれだけの人間がモーツァルトやベートーヴェンの音楽を本当にすばらしいと思って  聴いていると思いますか。いないとはいいません。でも、そのすばらしさのわかる少  数の人間に合わせて、ベートーヴェンには価値があるとするのは、結局、ベートー   ヴェンのわかる人間とわからない人間を差別していくことになります。そういう考え  方が傲慢なんです。芸術という発想にはそういう危険性がある。

  (中田考『私はなぜイスラーム教徒になったのか』、太田出版、2015年、243-244頁)

 

シェーンベルクなども「芸術は万人のためのものではない」と断言するが、彼に限らず、「芸術」に関わる者の言葉からは何かしら選民意識のようなものが感じられることがあるのは確かだ。

 とはいえ、上の引用の中で「危険性」という言い方がされているように、それは気をつければ回避できるものではある。「ベートーヴェン(などを中心とする既存の西洋芸術音楽の体系)には価値がある」とする者がその価値を普遍的なものだと信じ込まなければよいのだ。「西洋芸術音楽がすばらしい」とする価値観(私もそれを共有しており、「モーツァルトやベートーヴェンの音楽を本当にすばらしいと思って聴いている」者だが)は、この世界に数多ある異なる価値観の中の1つにすぎず、その有効範囲は限られている――こう弁えた上で(「芸術」が取扱い注意物であることを常に忘れずに)有効活用を図る分には「芸術」というものはそれほど悪いものではあるまい。その取扱いがなかなか難しいものではあるにしても(ところで、小中学校の音楽科教育で西洋音楽史を「必須の教養」のようにして教えるカリキュラムはそろそろ止めにすべきだろう。……と書いていて、ふと思い出した。前に非常勤で通っていた大学で、学生が教員採用試験に向けて必死に「暗記科目」としての西洋音楽史を覚え込むべく奮闘しているさまをしばしば目にしたが、本当に気の毒だった。とともに、そんなくだらない試験を課す側に対して腹が立った)。