2021年4月15日木曜日

「未開の1820年世代」が拓くもの

 金澤攝さんがピティナで連載している「生誕二百年を迎える作曲家群像――未開の1820年代世代を拓く」(https://research.piano.or.jp/series/group1821/index.htmlは順調に進んでいるようで、「総説」はすでに「その5」が掲載されている。のみならず、作品の動画もあげられており、実際に「1820年代世代」の作品に触れることができる。

 攝さんが言うように1820年代は「著名作曲家の少ない」時期だが、それだけにこれまで知られていなかった(もちろん私も知らないし、19世紀前半を専門とする音楽学者でさえまず知らないであろう)数多の作曲家の手になる作品が日の目を見れば、音楽史の見え方もいろいろ変わってくるはずだ。面白いことである。これまで「常識」や「定説」だとされてきたことが怪しくなれば(まあ、これはクラシック音楽というごくごく狭い世界だけのことではなく、今や多くの他の場面についても言えることだろう。世の中不確実なことだらけだ)、1820年代のことに限らず、人はいちいち自分の頭、目や耳で物事を確かめる必要が出てくるわけで、そのことが埃が積もりに積もった「クラシック音楽」の世界の活性化に繋がる可能性は少なからずあろう。

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 昨日述べたことへの補足を。私は何も「音楽科教育」で「西洋音楽」を用いること自体が悪いと言っているわけではない。私が問題にしているのはあくまでもごく表面的な悪しき教養主義(これは、とってつけたような「日本の伝統芸能・音楽、民謡」の教材についても言えることだ)である。それゆえ、たとえばベートーヴェンの第5交響曲(や尺八の《鹿の遠音》、あるいは《ソーラン節》)を教材に用いて実のある授業を行うことは十分可能だと思う(もちろん、そのためには教える側に相当の音楽の能力と知識、そして、教える力量が欠かせまい)。が、それはあくまでも1つの「選択」にすぎず、それを必修のようにするのはおかしいと思う(実のところ現在の学習指導要領ではベートーヴェンのこの交響曲は「必修」扱いではないのだが、各社の中学校の音楽の教科書には例外なくこの曲が取り上げられているとなれば、実質的にはそれは「必修」だということだ)。

 さらに付言しておけば、「西洋音楽史」は条件付きでならば音楽科でも扱ってよいと私は考えている。すなわち、「選択」授業の枠組み――つまり、生徒1人ひとりが学期なり1年なりの単位で「美術科」との二者択一というかたちで自由に選べる――の中で「日本の伝統芸能・民謡」や「世界の民俗(族)音楽」というメニューと共に、内容を吟味・精選した上でだ(もちろん、このメニューには「実技」も含まれる)。「選択」とわざわざ言うのは、それを知りたいとか興味があるとかいう生徒を対象にした方がよい、と考えるからだ(義務教育では音楽科は必修だが、もはやそれは無理があると私は思っている。小学校ではともかく、中学校では選択制を導入すべきではなかろうか。わざわざ「学校で」音楽などやりたくもないと思う生徒に3年間も学習を強いるべきではあるまい。それよりも、音楽に何かしら興味や関心を持つ生徒に的を絞った方が、生徒・教員ともに実のある時間になるはずだ)。

 私は義務教育には音楽教育があった方がよいと信じる者だが、今までのようなあり方では「学校教育に音楽なんていらないんじゃないですか?」という疑問・批判に答えるのは難しいとも思っている。では、どうすればよいのか? その答えの1つが「中学校での(生徒個人単位での)選択制の導入」であり、それに合わせて内容を自由化し、精選することである。これは従来の枠組みを半ば以上壊すものであって音楽教育(業)界の人たちには受け入れられないものかもしれないが、検討の余地はないだろうか?