2024年7月31日水曜日

リムスキー=コルサコフの《ピアノと管楽のための五重奏曲 変ロ長調》

  今日もつい先ほどまでNHK-FMを聴いていた。その中でN.  リムスキー=コルサコフ(1844-1908)の《ピアノと管楽のための五重奏曲 変ロ長調》(1876)が取り上げられていた。なかなかに面白い曲である。これまでにも手持ちのCDで数回聴いたことがあるが、今回がもっとも印象に残った。

が、1つ気になることも。それは特定のフレーズがやたらに繰り返されていたことだ。このことは彼の代表作の1つ、《シェヘラザード》(1888)などでも言えることなのだが、こちらの場合、多彩な管弦楽法のおかげでそのことがあまり気にならない(どころか、むしろ魅力に感じられる)。ところが、「五重奏」のとうに編成が小さい作品となれば、その手は使えない。そのため「繰り返し」が嫌でも耳に付くことになるわけだ。

とはいえ、聴いていて楽しい作品ではあったのは確かだ。すると、しつこい「繰り返し」を補って余りある魅力がどこかにあるのだろう。それはバッハやベートーヴェンなどのドイツ音楽を規範とする分析法ではうまくすくい取れないものに違いない。ともあれ、いずれ機会を改めてこの五重奏曲をじっくり聴き直してみたい。

2024年7月30日火曜日

メモ(114)

  文章を「書く」ことは「考える」ことである。それゆえ、人に「ものを考えない」ようにさせるには、「書く」ことをさせないようにすれば効果絶大だ。たとえば、AIに「書く」ことを代行させる習慣を付けさせるなどして……。

 

 今晩、FMをつけたらブラームスの弦楽六重奏曲第2番をやっていたので、つい最後まで聴いてしまう。素敵な曲だ。もっとも、私は第1番の方をいっそう好む。とりわけ第1楽章を。

2024年7月29日月曜日

メモ(113)

  演奏様式が同時代の主導的な作曲様式と「ほぼ」並行関係にあることは音楽史を振り返ればわかる。現在、作曲様式は「何でもあり」の時代である。そして、演奏様式にも同じことが言えるようだ。果たしてこの状態はいつまで続くことだろう。「何でもあり」ということは、突出して優れたものがないということではないだろうか。

 

 現状に不満を抱く人は、つい「昔はよかったなあ」と思ってしまう。 だが、いつの時代にも「よい」こともあれば「悪い」こともある。

 たとえば、現在の学校の教員の質が昔に比べて著しく下がったとは私は思わない。今から30年以上前、私は中学校の教員を1 年ずつ2回したことがあるが、そのとき感じたのは、むしろ、「ああ、自分が中学生だったときの教員に比べれば、平均的な質が上がったなあ」ということだった。昔の教員には理不尽な押しつけを平気でする人、問答無用で児童・生徒を威圧する人が少なくなかった。その点、私が教員をしていたときの同僚の教員の多くはそうではなかった。

 これには自分の立場が「生徒」から「教員」に変わり、同僚をひいき目に見ていたということが全くなかったとはいわないが、決してそれだけではないと思う。それゆえ、現在の教員についても「昔の教員の方が……」などとは私には考えられない。もちろん、現在(私の在職時にはその時点)なりの問題はある(あった)はずで、それはそれとしてきちんと見つめる必要はあろう。だが、だからといって、無批判に過去を美化すべきではない。

 もっとも、この国の政治家については、やはりある一点で甚だしく劣化したと言わざるを得ない。それは、どれだけ己の失態が明らかになっても開き直って辞職しないことだ。

2024年7月28日日曜日

意外にロマン的?

  昨日話題にしたギーゼキングだが、彼が属する時代の演奏様式はふつう、「新即物主義」と呼ばれている。これはそれ以前のロマン的(主観的)な演奏様式の反動として出てきたものだとされている。なるほど、確かに彼以前のピアニストの録音を聴くと、楽譜の取扱いは格段に自由であることがわかる(ただし、そこでの「自由」とは決してたんなる「好き勝手」なのではない。そこにもまた、ある種の約束事のようなものがあり、その範囲内での自由なのである)。

ところで、そのギーゼキングとそれ以降の時代のピアニストの演奏を聴き比べてみると、驚くべきことに彼の方がロマン的に聞こえる。「新即物主義」の音楽作品が書かれたのは1920年代だが、演奏様式はそれと完全に歩調を合わせていたわけではないようだ。むしろ、それ以降の時代の演奏の方が「即物的」であり、現在の演奏もその延長線上にあると言えよう。果たしてその流れをHIPの実践がどの程度変えることになるのか、大いに興味が持たれるところではある。

2024年7月27日土曜日

ギーゼキングのショパン

   ヴァルター・ギーゼキング(1895-1956)はドイツのピアニストだが、ドビュッシーやラヴェルなどのフランスも巧みにこなした。のみならず、「作曲家ギーゼキング」の作品は響きの上では同世代のフランスの作曲家のものに近い(たとえば次のものなど:https://www.youtube.com/watch?v=JFpT69CfI4c)。そのことは彼がフランス生まれで、幼少年期をそこ(やイタリア)で過ごしたことと何か関係があるのかもしれない。

とはいえ、彼のレパートリーの中核をなしたのはやはりドイツ・オーストリアものである。モーツァルトのピアノ独奏曲をはじめて全曲録音したのは彼であるし、突然の死に襲われるまで手がけていた録音はベートーヴェンのソナタ全曲だった(ただし、未完)。それらの録音は今でも十分聴き応えがある。

そんなギーゼキングがパリで演奏会をしたときのこと。アンコールのときに客席から「ショパン!」との声がかかるも、すかさず別の客が「ノン!」と打ち消し、ギーゼキングもバッハのコラールを弾き出したという(以上、矢代秋雄が伝える話)。なるほど、ファンにとっては彼にはショパンが似つかわしくなく思われたのだろう。

しかしながら、ギーゼキングは全くショパンを弾かなかったわけではない。数こそ少ないものの、数曲の録音がある。しかも、その中の《舟歌》作品60などでは、いわゆるショパンらしい演奏ではないものの、実に魅力的な演奏を行っているのだ(https://www.youtube.com/watch?v=3K-TkZEbRTY)。やはりこの人はすごいピアニストである。いずれその録音をまとめてじっくり聴いてみたいものだ。

2024年7月26日金曜日

渡辺裕先生の新著

  今日、自宅の郵便受けを覗いてみると、なにやら書籍らしきものが。そこで手を伸ばして取りだしてみると、渡辺裕先生の新著だった。私のような末端の不肖の弟子にまでお送りいただき、まことにありがたいことである。

さて、その新著だが、『校歌斉唱!―日本人が育んだ学校文化の謎』(新潮選書)というものである(https://www.shinchosha.co.jp/book/603913/)。例によって先生ならではの題材であり、これまでの著書同様、それが見事に料理されているに違いない。というわけで、これから読むのが楽しみだ。

渡辺先生の最初の著書は『聴衆の誕生』(春秋社、1989年)であり、それと比べればこの『校歌斉唱!』(のみならず、これ以前のある時期以降の著作)は随分かけ離れたことを扱っているように見える。だが、実のところ、扱う対象の範囲こそ広がってはいるものの、先生の思考と指向には見事な一貫性があるように私には思われる。その「渡辺ワールド」は新たな著作によってこれからも広がりと深まりを見せてくれることになるだろう。

ちなみに、渡辺先生は音楽を「外」(つまり、それを取り巻くコンテクスト)から読み解く人であるのに対し、私はむしろ「内」から「味わう」人である。にもかかわらず(いや、むしろ「だからこそ」というべきか)、先生のお仕事からは多くの刺激を受けている。

2024年7月25日木曜日

うれしい驚き

  以前ここで話題にした自身の研究ノート「西洋音楽の日本語的演奏について」は何人かの先行者の考察から多くを学んでいる。その1人が作曲家の森本恭正氏であり、数年前、その著書『西洋音楽論――クラシックに狂気を聴け――』(光文社新書、2011年)をたまたまご近所図書館で見つけて読んだとき、大きな衝撃を受けた。中にはなかなかに耳の痛いことも書かれていたのだが、「ここで述べられていることはどうやら本当らしい」と直感する。そして、それ以来、同書を折に触れ読み返し、そのつどいろいろな学びがあった。

 さて、先日、何とも驚くべきことに、その森本氏からメイルをいただいた。件の研究ノートをたまたま目にされ、のみならず、拙著『黄昏の調べ』もお読みいただき、わざわざ見ず知らずの私に感想を述べてくれたのである。ありがたいことだ(なお、私のアドレスを当然ご存じない森本氏のメイルを取り次いでくれたのが、アルテスパブリッシングの木村元氏であった。氏にも深く感謝!)。まずはメイルでいろいろと意見交換ができればうれしい。お互いに何かよい(危険な?)アイディアが閃くかも……。

2024年7月24日水曜日

楽譜の誤記?

   楽譜を読んでいると、「あれ、本当にこの音であっているのかな?」と思わされる箇所に出くわすことも稀ではない。今日もまた。それはプロコフィエフのピアノ・ソナタ第6番第1楽章、第19小節、右手の最初の音である。同様なパッセージが3回出てくる中で、1回目と3回目がF#なのに対して(1回目は次の動画の0'15"あたりから:https://www.youtube.com/watch?v=AFCeeLXdSQs)、この2回目の箇所だけがG#なのだ(同じ動画の0'39"あたり)。そこで、はじめに読んでいた全音版以外の版、すなわち、Boosey & Hawkes版と旧ソ連の全集版で確認してみたが、いずれも2回目はG#になっている。

 もちろん、あるパッセージを繰り返す際、敢えて音を変えるということは十分ありうる。だから、件の箇所もそうされている可能性は否定できない。そこで、その理由を考えてみよう―― まず、この2回目のパッセージのみ、その直前の音が異なっている。それは件のパッセージ第1、3回目のはじめの音と同じF#である。すると、2回目のはじめもこの音にしてしまうと同音連打が生じてしまう。そこで、おそらく、プロコフィエフはそれを嫌って、隣のG#を用いたということではなかろうか。

ともあれ、そのうちHenleからきちんとした校訂版が出るだろうから、そこでの判断を持つことにしよう。

2024年7月23日火曜日

B. A. ツィマーマンの《静寂と反転》を実演で聴いてみたい

  私が実演で是非とも聴いてみたい曲の1つが、B. A. ツィマーマンの傑作、《静寂と反転》1970)である(https://www.youtube.com/watch?v=UeteD0zHMqo&list=PLSAcT-loHFCluAqtE_QMuvCs9r7voEaVk)。彼は1960年代後半から死に到るまで、まるで強迫観念にとりつかれたかのように、ほぼ同じ発想の作品を書き続けた。そこではまことに不思議な時間・空間感覚がもたらされるのだが、《静寂と反転》はその1つの到達点であろう(残念ながら、その先にあったであろうさらなる可能性をツィマーマンは自死によって摘み取ってしまった)。

この作品は録音でも楽しめるとはいえ、やはり実演でないとそうした感覚は十分には味わえないことだろう。幸い編成もさほど大きくはないので、いずみシンフォニエッタ大阪が取り上げてくれないかなあ。

2024年7月22日月曜日

理性の「理論的な使用」とは何ぞや

  近年の哲学書の邦訳は昔に比べれば随分読みやすくなった。一般人の辞書にはない、業界独特の訳語についても次第に普通の語彙に置き換えられていっている。たとえば、カントの邦訳ではVerstandは従来「悟性」と訳されることになっていたが、今では普通に「知性」とされる(この事情については、石川文康訳の『純粋理性批判【上】』(筑摩書房、2014年)に収められた「専門用語の訳語について」でわかりやすく説かれている)ことが増えた。こうした改革は普通の読者にとっては大いに歓迎すべきものであろう。

 とはいえ、それでも翻訳の仕方になおいっそうの工夫があればよいと思わされる場面に出会うことも少なくない。たとえば、カントの『判断力批判』の初めの部分。以前話題にした新訳は次のように始まる――「アプリオリな原理によって認識される能力は、純粋理性と呼ぶことができる。またこの純粋理性一般の可能性と限界を探求する作業は、純粋理性の批判と呼ぶことができる」(カント(中山元・訳)『判断力批判(上)』、光文社古典新訳文庫、2023年、17頁)。ここまではよい(私が手放したある邦訳書はこの段階ですでに日本語として「けったい」だった)。だが、次の「ただし、この能力については、理論的な使用における理性だけが考えられている」(同)という部分に私は引っかかりを覚える。問題は「理論的な使用」という箇所だ。原文はin ihrem theoretischen Gebraucheであるから、正確に訳されているのは確かである(他のいくつかの邦訳でもやはり「理論的使用」である。それゆえ、私はこれまでずっと、その訳語に居心地の悪さを感じていた)。だが、同書を初めて読む、ごく普通の人がこの訳でそのいわんとするところをスッと理解できるだろうか? (かつての私自身のように)無理だと思う。

 そこでのtheoretischという形容詞(英語で言えばtheoretical)だが、これは古代ギリシア語で「観る」という意味のtheōreînにという動詞に由来する。とすれば、先のカントの文言にあるtheoretischという語は「(物事が何であるかを)観る際の」(つまり、「物事の認識に関わる」)と解することができる。

 もちろん、そのことを前掲書の邦訳をした人たちはわかっているはずだ。にもかかわらず、theoretischという語が出てくるとほぼ無条件に「理論的」と訳してしまう。なるほど、それは「誤訳」ではないかもしれないが「適切な訳」ではあるまい。訳書しか読まない普通の読者には何のことだかわからないからだ。

 同書の当該箇所に限らず、既存の哲学書の邦訳にはこの「理論的使用」のような箇所が数多ある。が、最初に述べたような現状からすれば、たぶん、今後のさらなる翻訳の改善を期待してもよいだろう(か?)。

2024年7月21日日曜日

メモ(112)

   「~したい」とか「~が欲しい」という欲望は人が生きる上での原動力であり、そうしたものが全くなければ生きる意欲もなくなろう。それゆえ、人の欲望を悪いものだとするある種の宗教は人に対して無理難題を課していることになる。

 だが、ものには限度。欲求も度が過ぎるといろいろと問題を引き起こす。それは「知」についても言えること。たとえば、「すべてを知り尽くしたい」とか「物事の根本原理を究めたい」とかいう欲求は、時には「(この世の中にある何らかの)世界を支配したい」という(必ずしも当人には意識されているとは限らない)欲望とどこかで繋がっているのかもしれない。「知は力(権力)なり」というわけだ。

2024年7月20日土曜日

gruppe nuova consonanza

  いよいよ私――寒さには強いが暑さには極めて弱い者――にとって辛い季節が始まった。だからといって、生きている限りこれは避けては通れないので、じっと耐え忍ぶしかない。

 そこで暑気払いに音楽を活用するわけだが、「毒を以て毒を制す」ということで暑苦しい「現代音楽」はなかなか悪くない。というわけで、今日はドイツ・グラモフォンの「アヴァンギャルド・ボックス」(以前、このブログで話題にしたもの)の1枚を聴いた。それはイタリアのgruppe nuova consonanzaという楽団の即興演奏を収めたものである。1969年に録音されたディスクだが、まさに当時の世相を反映してか、実に「熱い」演奏である。

 ところで、この楽団には面白い人物が参加している。それは映画音楽の巨匠、エンニオ・モリコーネ(1928-2020)だ。彼はトランペットを担当しており、件のディスクでもなかなかに過激なプレイを聴かせてくれている(収録曲の1つ:https://www.youtube.com/watch?v=x70SJFcQFvI)。これは決して「片手間」の仕事ではない。すると、もし、モリコーネがこちらの方に入れ込んでいたら『ニュー・シネマ・パラダイス』その他の映画音楽を書くことはなかっただろう。そして、私たちもそれらの感動の名曲に触れることができなかっただろう。

2024年7月18日木曜日

人にはいろいろな面があるが……

  昔の日本のクラシック音楽家について書かれたものや本人の文章を読むと、しばしば「安宅英一」という名前に出くわす。彼は音楽を含む芸術の大パトロンで、今日でも東京藝大の成績優秀学生に与えられる「安宅賞」にその名を留めている。

 ところが、私は少年時代、安宅英一の名を全く別の脈絡で知った。それは何かといえば、安宅産業――かつて存在した大総合商社――破綻の一因をつくった人としてである。英一(1901-94)は創業者、安宅弥吉(1873-1949)の長男なのだが、会社経営には向いていないとみなされ、後継者に指名されなかった。にもかかわらず、彼は「相談役社賓」という代表権を持たない不思議な肩書きで同社に関わり続け、悪影響を及ぼし続けたのである(以上のことを私は少年時代に読んだ次の書で知った:斎藤元一『フルブライト留学一期生』)、文藝春秋、1984年)。つまりは、安宅産業と関連企業、そして、その多くの従業員にとって、安宅英一は疫病神でしかなかったわけだ。

 人にはいろいろな面があり、ある面では「よき」人も別の面では「悪しき」人であるというのは、普通にいくらでもあることだ。が、安宅英一の名を「芸術のよきパトロン」として述べた文章に触れるたびに私はかなり妙な気分になる。そして、昨年も中村紘子のエッセイを読みながら、その気分を味わった。

 もっとも、古今東西の芸術の大パトロン――王侯貴族や大資本家―― たちの「原資」がどうやって生み出されたかを考えれば、安宅英一くらいの人にいちいち目くじらを立てるまでもないのかもしれない。が、「芸術とは金のかかるものだ」と言って涼しい顔をしていられる時代ではもはやあるまい。

2024年7月17日水曜日

人間的な、あまりに人間的な競争心

  昨日のネタに関連するものを。リストの《ノルマの回想》1841 年の作品だが、そこには当時のヴィルトゥオーソの好敵手、ジギスモント・タールベルク(1812-71)への対抗心が露骨に現れていて面白い。

 そのタールベルクも《ノルマ》に基づく作品、すなわち、《ベッリーニの『ノルマ』による大幻想曲と変奏曲》作品121834)を書いているのだが、明らかにリストはそれを意識している。というのも、そこで用いらられている原曲オペラの素材がいくつか共通しているのみならず、リストはいっそう派手な書き方をしているからだ。たとえば次の箇所などどうだろう(①はタールベルクの作品で、6’48”から、②はリストの作品で、4’18”からの箇所を聴かれたい:①https://www.youtube.com/watch?v=dFg02WEwlCM、②https://www.youtube.com/watch?v=XEkDsUrmFC4

 また、リストはタールベルクが得意とした「3本の手」、すなわち、中声部で旋律が歌われ、上下を分散和音や音階で囲み、あたかも3本の手で弾いているかのような印象をもたらす技法をわざわざ《ノルマの回想》で用いている(1a――11’48”から――と1b――14’28”から――がリスト、2a――4’04”から――と2b――13’52”から――がタールベルク:1a 1b https://www.youtube.com/watch?v=XEkDsUrmFC4 2a https://www.youtube.com/watch?v=_3maaBk9vOw2b https://www.youtube.com/watch?v=3dZbQei8PPY

 リストの作品もタールベルクの作品もそれぞれに面白いが、《ノルマ》ではリストの方が一枚上手か? ともあれ、「人間的な、あまりに人間的な」競争心に関わるエピソードではある。

 

 戦争を一刻も早くやめさせるためならばともかく、火に油を注ぐかのような外国への―――しかも経済の衰退で疲弊する多くの自国民を一切顧みない――資金援助が果たして「国益」にかなうものかどうか……。

2024年7月16日火曜日

《ノルマ》がノルマ?

  演奏家のレパートリーには「古典名曲」として時代の移り変わりを超越したものもあれば、流行廃りの中で浮き沈みするものもある。私の少年時代、往年のヴィルトゥオーソが愛奏した曲、たとえば、リストの《ドン・ジョヴァンニの回想》や《ノルマの回想》などは忌むべきものとされていたのか、演奏会はもちろん、録音でも普通に聴くことができなかった。

 ところが、今やそうした作品は猫も杓子も取り上げるようになってしまった。試しにYou-Tubeで《ノルマの回想》を検索してみると、いくらでも見つかるではないか。まるで、今やピアニストが身の証しを立てるための「ノルマ」であるかのごとくに、多くの(とりわけ若い)ピアニストがこの曲を弾くのだ。

 そこで、興味からそれらの演奏を聴いてみると、皆、まことに達者である。が、たぶん、それは(古い録音からわかる)昔のヴィルトゥオーソが行っていたような演奏とはどこかが違っているように聞こえる。もちろん、時代が異なれば感覚も違ってくるのは当然のことであり、それを悪く言うつもりはない。だが、それはそれとして、最近の《ノルマの回想》の演奏に説得力――聴き手を音楽のドラマに引き込み、最後まで魅了してくれる力――を感じることはあまりない。

 ただ、これはもしかしたら、新しい演奏の流儀の面白さに私が気づいていないだけなのかもしれない。というわけで、これからも《ノルマの回想》(に限らず、その手の作品)の新たな演奏を聴きつつ、いろいろ思いを巡らせることにしよう。

2024年7月14日日曜日

愛犬セラフィンの10回忌

  今日は愛犬、ワイヤー(ヘアード)・フォックステリアのセラフィン(2002-14。名前は男の子みたいだが、実際は女の子である。愛称は「ふいちゃん」)の10回忌。元々は犬が怖くて仕方なかった私を変えてくれ、世界を大きく広げてくれたのがこのセラフィンだった(下の写真はありし日のセラフィン)。あの悲しい別れから、もう10年になるのか……。その間にいろいろなことがあったなあ。

 



ところで、昔々、「『サヨナラ』ダケガ人生ダ」という文言を初めて知ったときは、「まあ、何とわびしいことを言うなあ」と思ったものだが、その頃はまだまだ私も若かった。しかしながら、この歳にもなると、その文言にも「確かに」と素直に頷ける。しかも、もはやそこにわびしさも感じない。かく言う私もいずれこの世に「サヨナラ」することになるわけであり、せいぜい、それまでをそれなりに懸命に、かつ楽しく生きてゆきたい。

 

今日米国であった事件には驚いた(こんなことはあってはいけない!)。だが、それに比べて日本が心底安心して暮らせる国かといえば、まことに心許ない(それは治安の面というよりも、むしろ種々の公的な仕組みの面で)。もちろん、このままでよいわけがない。

2024年7月13日土曜日

いずみシンフォニエッタ大阪 第52回定期演奏会:スペインの風景――庭から望む森

  今日は「いずみシンフォニエッタ大阪 52回定期演奏会:スペインの風景――庭から望む森」を聴いてきた(於:いずみホール(大阪))。とても楽しかった。

 演目は次の通り:

 

I.アルベニス(I.Dobrinescu編):スペイン組曲よりアストゥリアス

E.グラナドス(J.Choe編):12のスペイン舞曲集 op.37 【弦楽合奏版】より

 第3 ファンダンゴ/第5 アンダルーサ/第9 マズルカ ロマンティカ

M.ファリャ(川島素晴編):スペインの庭の夜

 

J.ロドリーゴ:ある庭園のための音楽[日本初演]

B.カサブランカス:・・・ 灰色の森が彼の下で揺れ動く(ホルンと室内管弦楽のための室内協奏曲 2番)[日本初演]

 

スペインの作品が年代順に並べられているのだが、よく考えられた巧みな選曲である(ただし、1つだけ不満があった。それについては後述)。

 最初のアルベニス作品は原曲のピアノ曲よりもむしろギター編曲で聴かれる機会の方が多いかもしれない。軽やかな音楽を管弦楽でやるとなるとどうなるか若干心配だったが、編曲が見事であり、演奏も素敵だった。まことによい出だしである。

 続くグラナドスだが、これはない方がよかった。1つには演奏会がその分長くなりすぎてしまったからである。そして、もう1つには先のアルベニスとは対照的に編曲が冴えないものだったからだ。とりわけ、〈アンダルーサ〉の編曲はぱっとせず、あの刺激的な音楽が何とも鈍重なものになってしまっていた。残念。

 前半のメインは次のファリャ作品。実はこれが一番楽しみだったのである。作品自体が大好きだし、独奏者が萩原麻未となれば期待せずにはいられないではないか。そして、実際、演奏はすばらしかった。奔放さと繊細さを兼ね備えた彼女の自由闊達なplay(「演奏」、かつ「遊び」)はファリャの音楽にはうってつけである。そうした萩原と指揮の飯森範親の(どちらかといえば)きっちり音楽をつくり込む流儀は音楽の方向性が些か異なっていたとはいえ、それもまた演奏を全体としてスリリングなものにしていた……かもしれない(なお、演奏には川島素晴の恒例「ダウン・サイジング」編曲が用いられていたが、原曲が管弦楽法の名手ファリャの手になるものだけに、さすがに今回は川島の名人芸をもってしてもいろいろ無理があったのは否めない。それにしても、そろそろこの「川島ダウン・サイジング編曲」は打ち止めにした方がよかろう。理由は(以前にも述べたが)、①それが熟達の名人芸によるものなのは間違いないが、さすがにもうマンネリである。②そのためにかかる費用や労力を他の作曲家――必ずしも若手に限らない――への新作委嘱や演奏使用料を要するオリジナル作品のために活用した方がよい、ということだ)。

 演奏会後半に取り上げられたロドリーゴ作品は私も知らなかったが、これがなかなかの佳曲だった(なお、初めの方に現れ、全曲中でモットーのように用いられる旋律の出だしが童謡《春が来た》と似ているために、曲を聴いている間中、私の頭の中では「春が来た」という言葉が響き続けた)。《アランフェスの協奏曲》があまりに有名なために(その他数曲を除いて)なかなか他の曲に実演でお目にかかれないのだが、今日聴いた限りでは、やはりロドリーゴという人はなかなかの作曲家だと思われる。一見まことにシンプルな音楽なのだが、決して凡庸ではなく仕掛けが巧みであり、響きも多彩だ。これからもっと彼の音楽を聴いてみたい。

 最後のベネト・カサブランカス1956-)の作品も私は今回初めて聴いたが、これも聴き応えがあった。彼の音楽は語り口が実に巧みで、聴き手の耳を飽きさせないのだ。音楽の中で起こるいろいろな出来事自体が面白いし、その「繋がり」も十分説得力を持っている。一度聴いた限りで「忘れがたい」何かがあるわけではないにしても、少なくとも「他の作品も聴いてみようかな」と思わせるだけのものがこのカサブランカスの作品にはあった。もっとも、それには今回独奏を務めたホルンの福川伸陽の名演も少なからず与っていよう。彼の演奏は以前、何かの放送で聴き、その巧みさに舌を巻いたものだが、実演で聴くとその凄さがいっそうよくわかる。そして、その福川を支えたいずみシンフォニエッタ大阪も見事だった。

 というわけで、全体として選曲・演奏ともにまことに充実したよい演奏会であった。演奏者の方々はもちろん、企画・運営に携わった方々にも深い感謝を。どうもありがとうございました。

2024年7月12日金曜日

聖アウグスティヌスの言葉

  聖アウグスティヌス(354-430)は音楽がもたらす耳の快楽について煩悶する。すなわち、「それが引き込む快楽への危険と、にもかかわらずそれが有している救済的効果の経験とのあいだを動揺しています」(アウグスティヌス『告白』、山田晶・訳、中央公論社、1978年、376頁)。そして、一方では「教会における歌唱の習慣を是認する方向にかたむいています。それは耳をたのしませることによって、弱い精神の持ち主にも敬虔の感情をひきおこすことができるためです」(同、376-377頁)といいながらも、こう付け足すのを忘れない――「うたわれている内容よりも歌そのものによって心を動かされるようなことがあるとしたら、私は罰を受けるに値する罪を犯しているのだと告白します。そのような場合は、うたわれるのを聞かないほうがよかったのです」(同、377頁)。

私はこうしたアウグスティヌスの言葉を、キリスト教の信仰に関わる問題としてではなく、音楽というものの取扱いの難しさ――すなわち、使い方次第で毒にも薬にもなるということ――の問題に繋がるものとして読みたい(ちなみに、私は音楽の「快楽」に身を委ねることを何等ら恥じないが、さりとて、音楽がたんにそれだけのものだとも思っていない)。

2024年7月10日水曜日

《まじめな変奏曲》

  メンデルスゾーンはピアノの名手だったが、なぜかこの楽器の独奏曲では大曲をほとんど書いていない。他の曲種ではそうした作品をいろいろものしているにもかかわらず。もっとも、これは彼が「ピアノ独奏曲」で手を抜いたということなのではなく、そこにある種の「役割分担」を自分なりに設定していたということなのではなかろうか。

 さて、そのメンデルスゾーンのピアノ独奏曲の中で一、二を争う傑作が《Variations sérieuses》(1841)である(https://www.youtube.com/watch?v=tb7MnRKOcps)。これは普通、「厳格な変奏曲」と訳されるが、今日ふと思ったのが、「これは不適切訳ではなかろうか?」ということだった。sériuexという形容詞を「厳格」と訳すのはやり過ぎで、「まじめな」くらいでよいのではないか(「謹厳な」でもよいかもしれないが、これも些か難すぎる)。19世紀前半のピアノ独奏用に書かれた変奏曲には軽い感じのものや名人芸を誇示するものが少なくなかったから、メンデルスゾーンはそうしたものとは一線を画する意味でsériuexvariationsが女性名詞の複数形なのでsérieuses)という形容詞を曲名のつけたのだろう。だが、「厳格な」と訳してしまうと、何かそれとは異なるニュアンスを持ってしまうように私には思われる。

2024年7月9日火曜日

ensemble≓アンサンブル?

  異なる文化圏の間では「翻訳不可能」な概念、あるいは、そこまで言わなくとも、近似知的にしか翻訳できない概念というものはいくらでもあるだろう。そして、異文化間コミュニケーションにおいては「こんにゃく問答」のようなことはいくらでも起きていることだろう。

 今日、ふと気になったのが、ensembleという語である(この語にはいろいろな意味があるが、ここでは音楽の場面に限ることにしよう)。日本語では「アンサンブル」と音訳されて用いられることが多いが、果たして多くの日本人が西洋音楽で行っている「アンサンブル」は彼の地の人たちのそれと全く同じものなのだろうか? もちろん、両者が全く異なっているというのではなく、大部分で意味は重なっていることだろう。が、「和も以て貴しと成」し、同調圧力が高い日本のライフスタイルを身につけた人たちにとっての「アンサンブル」と、それとはおよそ異なる気風の西洋人たちのensembleには、少なからぬ場合、どこかに何かしら根本的な違いあるのではないだろうか? もちろん、そのどちらか一方が正しく、他方が間違っているとかいうことなのではない。が、その「違い」の有無とそのありようについては探ってみる価値があると私は思う。