2024年7月22日月曜日

理性の「理論的な使用」とは何ぞや

  近年の哲学書の邦訳は昔に比べれば随分読みやすくなった。一般人の辞書にはない、業界独特の訳語についても次第に普通の語彙に置き換えられていっている。たとえば、カントの邦訳ではVerstandは従来「悟性」と訳されることになっていたが、今では普通に「知性」とされる(この事情については、石川文康訳の『純粋理性批判【上】』(筑摩書房、2014年)に収められた「専門用語の訳語について」でわかりやすく説かれている)ことが増えた。こうした改革は普通の読者にとっては大いに歓迎すべきものであろう。

 とはいえ、それでも翻訳の仕方になおいっそうの工夫があればよいと思わされる場面に出会うことも少なくない。たとえば、カントの『判断力批判』の初めの部分。以前話題にした新訳は次のように始まる――「アプリオリな原理によって認識される能力は、純粋理性と呼ぶことができる。またこの純粋理性一般の可能性と限界を探求する作業は、純粋理性の批判と呼ぶことができる」(カント(中山元・訳)『判断力批判(上)』、光文社古典新訳文庫、2023年、17頁)。ここまではよい(私が手放したある邦訳書はこの段階ですでに日本語として「けったい」だった)。だが、次の「ただし、この能力については、理論的な使用における理性だけが考えられている」(同)という部分に私は引っかかりを覚える。問題は「理論的な使用」という箇所だ。原文はin ihrem theoretischen Gebraucheであるから、正確に訳されているのは確かである(他のいくつかの邦訳でもやはり「理論的使用」である。それゆえ、私はこれまでずっと、その訳語に居心地の悪さを感じていた)。だが、同書を初めて読む、ごく普通の人がこの訳でそのいわんとするところをスッと理解できるだろうか? (かつての私自身のように)無理だと思う。

 そこでのtheoretischという形容詞(英語で言えばtheoretical)だが、これは古代ギリシア語で「観る」という意味のtheōreînにという動詞に由来する。とすれば、先のカントの文言にあるtheoretischという語は「(物事が何であるかを)観る際の」(つまり、「物事の認識に関わる」)と解することができる。

 もちろん、そのことを前掲書の邦訳をした人たちはわかっているはずだ。にもかかわらず、theoretischという語が出てくるとほぼ無条件に「理論的」と訳してしまう。なるほど、それは「誤訳」ではないかもしれないが「適切な訳」ではあるまい。訳書しか読まない普通の読者には何のことだかわからないからだ。

 同書の当該箇所に限らず、既存の哲学書の邦訳にはこの「理論的使用」のような箇所が数多ある。が、最初に述べたような現状からすれば、たぶん、今後のさらなる翻訳の改善を期待してもよいだろう(か?)。