2024年7月29日月曜日

メモ(113)

  演奏様式が同時代の主導的な作曲様式と「ほぼ」並行関係にあることは音楽史を振り返ればわかる。現在、作曲様式は「何でもあり」の時代である。そして、演奏様式にも同じことが言えるようだ。果たしてこの状態はいつまで続くことだろう。「何でもあり」ということは、突出して優れたものがないということではないだろうか。

 

 現状に不満を抱く人は、つい「昔はよかったなあ」と思ってしまう。 だが、いつの時代にも「よい」こともあれば「悪い」こともある。

 たとえば、現在の学校の教員の質が昔に比べて著しく下がったとは私は思わない。今から30年以上前、私は中学校の教員を1 年ずつ2回したことがあるが、そのとき感じたのは、むしろ、「ああ、自分が中学生だったときの教員に比べれば、平均的な質が上がったなあ」ということだった。昔の教員には理不尽な押しつけを平気でする人、問答無用で児童・生徒を威圧する人が少なくなかった。その点、私が教員をしていたときの同僚の教員の多くはそうではなかった。

 これには自分の立場が「生徒」から「教員」に変わり、同僚をひいき目に見ていたということが全くなかったとはいわないが、決してそれだけではないと思う。それゆえ、現在の教員についても「昔の教員の方が……」などとは私には考えられない。もちろん、現在(私の在職時にはその時点)なりの問題はある(あった)はずで、それはそれとしてきちんと見つめる必要はあろう。だが、だからといって、無批判に過去を美化すべきではない。

 もっとも、この国の政治家については、やはりある一点で甚だしく劣化したと言わざるを得ない。それは、どれだけ己の失態が明らかになっても開き直って辞職しないことだ。