2024年9月20日金曜日

Finaleのフィナーレ

  楽譜作成ソフトのFinaleがフィナーレを迎えることになるとは……。ほぼ一月遅れでこのことを知った(https://realsound.jp/tech/2024/08/post-1760936.html)。

 私はそんな高価なソフトは使っておらず、その下位ヴァージョンたるPrint Musicをごくごく限られた場合のみ用いていたくらいなので(つまり、ほとんどは手書きで処理していたので)、実害は全くない。が、これを仕事に用いていた人は大いに困るだろう(他にも楽譜作成ソフトはあるとはいえ、シェアはFinaleがトップだったというから)。

 クラシック音楽の出版譜に関していえば、現在そうしたソフトを用いてつくられたものはまだまだ手作りによるものの水準に達していないように私には感じられる。もちろん、これからも改良が重ねられていくのだろうが、私が生きている間にどのくらい改善されるのか、興味がないではない。

 さて、それはそれとして、楽譜書きソフトが作曲にどのような影響を与えているかを検証すれば面白いと思う。やはり、何かしらそうしたものは正と負の両面であるはずだろうから。

 私個人に関していえば、たとえどれほど楽譜書きソフトの性能が向上したとしても手書きを捨てるつもりはない。たとえそれが「趣味の」作曲でのことであっても。 

2024年9月19日木曜日

グラズノフのピアノ協奏曲

  アレクサンドル・グラズノフ(1865-1936)にはピアノ協奏曲が2曲あるが、いずれもとても魅力的である(たとえば、第1番:https://www.youtube.com/watch?v=AgjwYIcCx0s)。同じロシアのピアノ協奏曲といえばチャイコフスキーやラフマニノフが取り上げられることが多いが、グラズノフやアントン・ルビンシテインの曲も実演で聴いてみたいものだ(ピアノ協奏曲だけではなく、交響曲なども!)。それに魅了される聴き手も少なくないだろう。

2024年9月18日水曜日

演奏の前提としての美音

  美音のヴァイオリニストとして私の脳裏に真っ先に浮かぶのはアルチュール・グリュミオー(1921-86)だ。その音はたんに美しいだけではなく、そこには独自の音調があった。それゆえ、現在聴いてもすぐにそこに引き込まれてしまう。

 さて、「美音」と言えば、ある時期以降の演奏家の大きな特徴であろう。とにかく、何を弾いても「美しく」鳴り響かせるのだ。が、そこにグリュミオーのような独自の音調を私が感じさせられることはほとんどない。少なからぬ場合、「ああ、美しいなあ。で、それで?」ということになってしまう。

しかしながら、彼ら・彼女らの「美音」は「個人の演奏スタイル」の結果ではなく、演奏の「前提」ととらえるべきなのだろう。すると、そこに心を奪われることなく、その先にあるものに耳を傾けないといけないわけだ。もちろん、その結果、大きな喜びを味わう可能性もあれば、とんでもない幻滅感に襲われる可能性もあろう。だが、いずれにしても、美音の先にあるものを聴き取ってみたいものだ。

 

私にとっては長らくショパンの方がシューマンよりも好ましい作曲家だった。が、近年、それが逆転している。その理由の1つに、ショパンの創作がほとんどピアノ独奏曲に集中しているのに対し、シューマンの創作が多くのジャンルにわたっているということがある。

昔は彼のピアノ独奏曲は楽しめても、若干の歌曲を除き、他のジャンルはそうではなく、何か「壁」のようなものを感じていた。ところが、あるときに彼の交響曲に親しみを覚えるようになってからは 、そうした壁は次第に取り払われていったのである。

というわけで、涼しい秋の訪れ(それはいつになるのだろう?)とともにシューマンの室内楽曲を大いに楽しみたいと思っている。

2024年9月17日火曜日

メモ(119)

  20世紀の70年代くらいまではさまざまな分野で「前衛」というものがそれなりの意味を持ち得た。前衛に属する者たちの行いに共感できなくとも、その存在を認める人たちは少なくなかったはずだ。が、それ以降の時代はおそらくそうではない。

すると、かつての「前衛」の延長線上で現在仕事をしている芸術家のことはどう考えればよいのだろう? 「擬前衛」?

2024年9月16日月曜日

「人間の普遍的無意識に訴えかけられるような音楽」などないにしても

  「民族の差にかかわらず、人間の普遍的無意識に訴えかけられるような音楽が書けたら一番すばらしい」と湯浅譲二は言う(湯浅譲二・西村朗『未聴の宇宙、作曲の冒険』、春秋社、2008年、185頁)。なるほど、そのような音楽があるとすれば、どんなものか私も聴いてみたい。が、たぶん、それはありえないだろう。「言語」の壁がそれを阻むだろうからだ。

 とはいえ、系統が全く異なる言語を話す者同士の間ではある1つの音楽が決して同じように聞こえることはないとしても、その同じ音楽に(受け手によってその内実は異なるとはいえ)感動できるということはあろう。そして、それで十分ではないだろうか。湯浅が目指した音楽もそうしたものだと考えれば上記の発言には大いに頷けるし、たぶん、その聴き手の数は「クラシック音楽」に比べてさほど多くはないかもしれないが、彼はあれこれの自作でその試みに成功していると言えよう。

2024年9月15日日曜日

余計な付け足し

  最近、ある美術館の周りにある遊歩道を巡っていたときのこと。どこかから楽器の音が聞こえてくる。そんなところでするはずのない音だ。案の定、いくらか進むうちにスピーカーが目に入ってくる。マルチ・チャンネルでそれなりに工夫された音響なのだが、自然の音の中ではそれは「余計な付け足し」にすぎない。はっきり言えば「邪魔」以外の何ものでもない。

 この国の「バブル」時代に「環境音楽」というのがもてはやされたが、その後どうなったのだろう。中には優れた効果をあげているものもあったが、多くは先の場合のように「余計な付け足し」でしかなかった。そうしたものを有意義なものにするには、当の環境によほど注意してサウンドを設計しないといけないわけだ。

 往時の「環境音楽」について事後の検証作業はどの程度なされているのだろう? もし、そうしたものがあれば読んでみたいものだ。

2024年9月14日土曜日

サン=サーンス編のリストのピアノ・ソナタ

  リストのピアノ・ソナタをサン=サーンスが2台ピアノ用に編曲したものがある。昔々、その存在を本で知ったときには「なんとまあ、不可思議なことを……」と思ったものである。そして、後年、楽譜を手にとってみたときにもその疑念は払拭されなかった。

 ところが、今、その編曲の録音を聴いてみると、「ああ、これもありかなあ」と思わされる(https://www.youtube.com/watch?v=R7ff1JeFNbg)。そこにはサン=サーンスの管弦楽曲に相通じるものがあるように感じられ、面白く聴けるのだ。リストの原曲が持つ懐の深さ、そして、そこから1つの解釈のありようを観て取ったサン=サーンスの音楽性がこの編曲からは感じられる。というわけで、いつか実演でも聴いてみたいものだ。

2024年9月13日金曜日

打ち間違い

  私の著書や翻訳にも恥ずかしながら誤記はある。校正で何度も見直したにもかかわらず。まあ、同じ人間が見ているがゆえに、却って見落としが生じるのかもしれないが。ともあえ、それを訂正する機会が訪れることを願うばかり。

 さて、その誤記だが、主たる原因はワープロの打ち間違いと変換ミスである。それはつまり、原稿用紙に手で書いているのであれば生じないような誤りだ。そして、そうしたものは文章の書き手が自覚していないことが多いだろうから、校正の網の目をくぐり抜けて印刷にいたってしまうわけだろう(もちろん、だからといって、それが許されるわけではない)。

本に誤記があるのと同様、楽譜にも誤記はある。人間の手によってつくられるものである以上、それを完全になくすることは難しかろう。そして、楽譜の場合にも、今やコンピュータを用いてつくられるものが少なくないとなれば、ワープロを用いて書かれた文章と同じようなことが生じているに違いない。

たとえば、以前、Petersから出ているレスリー・ハワード校訂のリストの《巡礼の年・第1年「スイス」》のある曲で、信じがたいような音の誤記があった。が、これはいかにも楽譜作成ソフトを用いてつくられた譜面(ふづら)なので、たぶん、「打ち間違い」がもたらしたミスだろう。言い換えれば、すべて手でつくりあげた楽譜ならば、この手のミスは生じないに違いない。そして、だからこそ、校正をくぐり抜けてしまったのだろう。

 「便利は不便の裏返し」とは言われる(?)が、それは「楽譜書きソフト」にも言えることだろう。なるほど、そうしたソフトによれば「手づくり」よりも格段に労力を省くことができよう。だが、それによってつくられる「譜面(ふづら)」は、今のところ手づくりの楽譜に比べて美しさと「音楽を感じさせる」点でまだまだ及ばないのみならず、手作りでは生じない「打ち間違い」をもたらすという点でも劣っているように思われる。 

 もちろん、「楽譜書きソフト」の欠点はこれからどんどん改められていくことだろうし、そうあって欲しい。が、それはそれとして、全面的に楽譜の浄書を機械任せにしてしまうと、手づくりの職人芸は廃れてしまうに違いない。だとすれば、それはまことにもったいない。何とか温存されて欲しいところだが、果たしてこれからどうなることであろうか。

2024年9月12日木曜日

メモ(118)

  20世紀の「現代音楽」の作曲家たちの最大の誤りは、音楽に関わる諸々の現実や制約を度外視して音を自分の自由にできる素材と思い込んだことであろう。

2024年9月10日火曜日

メモ(118)

  最近、好奇心からある本をぱらぱらとめくってみたら、驚いた。音楽が主題なのに、音楽の内容とは直接関係のないおしゃべりを延々と繰り広げていたからだ。なるほど、やはり「音楽について語る」のにもある種の技術が必要だと再確認した次第。

2024年9月9日月曜日

島田広先生の作品を聴きに

  昨日聴いてきた演奏会は「菅生千穂クラリネットリサイタル2024 三重公演」(於:青山ホール(三重県伊賀市))。私の自宅から電車を乗り継いでほど2時間半ほどの会場でのものだ。普段ならばかくも遠方に出かけることはまずないのだが、今回は別である。というのも、共演のピアニストが恩師だったからだ。

 その「恩師」とは作曲家の島田広先生。私が横浜国立大学の大学院で学んでいたときに助手を務めておられた方である(現在は教授)。年齢は私より3つ上なだけだが、当時多くのことを教わった(し、その後もいろいろ教わっている)。その先生がわざわざ演奏会の案内をしてくださったので、これを聴き逃す手はないと思い、喜び勇んで会場へ向かったわけだ。

 さて、肝心の演奏会だが、演目は次の通り:

 

 (前半)

F.クライスラー:美しきロスマリン

J.ブラームス:ヴァイオリン・ソナタ第2番作品100 (Eクラリネット版)

 

(後半)

島田広:流れ(2021年初演、委嘱作品)

 F.プーランク:クラリネット・ソナタ

 

私のお目当ては後半であり、期待通りのすばらしいものだった。

 前半のブラームスについても大いに好奇心はあった。が、音楽としては十分説得力のある演奏だったが、このヴァイオリンの名曲をわざわざクラリネットでやる意義があるようには感じられなかったのである。というのも、原曲でのヴァイオリンの豊かな鳴り響きが、クラリネットを用いることによってでは少なからず削がれていたからだ。ブラームスにはクラリネットのためのソナタ2曲があるが、そこでのいかにもクラリネットらしい、のびやかでたっぷりとした響きを思えば、今回の編曲版はどこか響きが不自然で寸詰まりに感じられたし、ピアノもそれに合わせて些か遠慮気味に聞こえた。まこと「編曲」というのは難しいものである

 その点、後半は心底楽しませてもらった。プーランクのソナタは音楽上のさじ加減が難しい曲である――つまり、過剰な表現では野暮になるし、さりとて表現を抑制すればよいというものでもないからだ――が、音楽づくりの面でも、クラリネットという楽器の魅力を味わわせてくれるという面でも見事な演奏だった。

 さて、この日の私のお目当て中のお目当ては島田先生作曲の《流れ》である。先生の曲は昔からいろいろ聴かせていただいているが、いつも感じるのはまさに音楽の「流れ」が自然であり、鳴り響きの面でも内容の面でも豊かであることだ。残念ながら近年の作品は聴く機会を得なかったが、今回の《流れ》がこれまでの先生の創作の発展形であると思われた。その始まりでは何の気負いも衒いもなく、すっと音楽が流れでてくる。その響きはどこかメシアンを思わせるが、彼の音楽のような強烈な求心性――つまり、終点に向かって有無を言わせずに聴き手を引っ張っていくようなこと――はない。が、聴き手をごく自然に音楽の流れの中に引き込んでくれる。そして、その流れに乗れれば、後は眼前(耳前?)に次々と繰り広げられる光景を聴き手がそれぞれに自分なりに安心して眺めていられるし、それを楽しむこともできるのだ。しかも、楽しいだけではない。曲を聴き進むうちに、その「流れ」の基調を成ものが朧気に感じられてきて、感動が深まっていく。一度聴いただけでは演奏時間25分に及ぶこの《流れ》を十分に把握できるはずもないが、(昨今の「現代音楽」作品では稀な)深い満足を味わうことができたし、もっとこの曲のことを知りたいと思った(言い忘れていたが、このように思うことができたのには2人の演奏のありようも大きく関わっている)。

 ところで、ピアニストとしての島田先生の演奏をきちんと聴いたのは実は今回が初めてだった。在学中には細切れではピアノを聴かせていただいたし、下手な私の連弾相手もしていただいたが、演奏会でのピアノに触れる機会はなかったのである。その意味でも今回の演奏会は楽しかった。というわけで、島田先生、そして、その機会を間接的につくってくださった(のみならず、すてきな演奏を聴かせてくださった)菅生さん、どうもありがとございました。 

2024年9月8日日曜日

「現代音楽」における「旋律」の扱いの難しさ

  今週のNHK-FM「現代の音楽」は先週に続き、湯浅譲二の追悼番組であった。前回はホワイト・ノイズによる《イコン》(1966)やオーケストラのための《クロノプラスティク》(1972)などが取り上げられており、それらは私にも名作と思われるものだったので楽しく聴いた。

 ところが今週取り上げられたのはそれ以降の作品であり、こちらはあまり面白くない。とりわけ、《弦楽四重奏のためのプロジェクションⅡ》(1996)にはもやもやしたものを感じる。なぜだろう? おそらく、「旋律」の扱いがあまりうまくいっていないからだろう。「作曲=音響の構成」に徹していた頃の湯浅作品には「旋律」の問題は生じなかったが、ある時期以降、種々の協奏曲をはじめとして、「旋律」がそれなりの重要性を持つようになっている。にもかかわらず、それをうまく扱う方法論が作曲者の中で確立されていなかったのではないか(と私は邪推する。なお、「旋律」の扱いに関しては武満徹の方が格段に巧みであるように思われる)。

 これは何も湯浅に限った問題ではなかろう。つまり、「現代音楽」では「旋律」の扱いはまことに難しく(というのも、その土台となる「調性」を排してしまったからだが) 、この点からかつての「現代音楽」を見直してみれば、いろいろと面白いことや、これからの(反面教師的な)ヒントが見つかるのではなかろうか。

 

 今日はやや遠方まで演奏会を聴きに行ってきた。とても楽しく聴かせてもらった。その感想は明日に。

2024年9月7日土曜日

ブラッハーの《24の前奏曲》

  ボリス・ブラッハー(1903-75)晩年のあまりに渋い名作、ピアノ独奏のための《24の前奏曲》(1974)。ブラッハー夫人のゲルティ・ヘルツォーク(1922-2014)演奏の録音をたまたま見つけたのでご紹介する次第(https://www.youtube.com/watch?v=duUdZEETclM)。私は随分前に金澤攝さんの演奏で聴いて以来、この作品(のみならず、ブラッハーの音楽全般)に魅せられている。

2024年9月6日金曜日

妙なる調べの正体は

  数日前の朝、ラジオをつけるとなにやらクラリネットの妙なる調べが耳に入ってきた。知っている曲ならばものの12秒でわかるのだが、このときは「?」だった。が、知らない、あるいはよく覚えていない曲でもじっと聴いていると、多くの場合、様式から誰の手になるものかは判明する。そこで、しばらく聴き続けた。すると、あるときにはコープランドのように聞こえたり、またあるときにはヒンデミットのように思われたりする。だが、そのいずれでもないこともわかる。そこでさらに先へ進んだときに、ぱっと思い出した。「ああ、これはバーンスタインの交響曲第2番《不安の時代》だ」と。何度も聴いている作品なのだが、ぱっと聴いたわかるほどには頭に入っていなかったのである。

 ともあれ、これで一安心。その後は心穏やかに聴き進めた。が、こうして久しぶりにこの曲に接してみると、その「ごた混ぜ」ぶりを改めて面白く感じる。よく言えば、多様性に富む、悪く言えば、様式上の統一性がない(し、作曲者の独自性もわかりにくい)のだ。それゆえ、この曲を(のみならず、他のバーンスタインの曲の多くも)「名曲」だと言いがたいところがある。しかし、それはそれとして、面白く聴けるのも確かであり、今回も最後まで楽しませてもらう。

 そんなバーンスタインの最高傑作はおそらく、《ミサ曲》(1971)だろう(もちろん、《ウェストサイド物語》もすばらしいが)。この作品は「歌手と演奏家、踊り手のための劇場用の曲」と銘打たれているので、録音を聴くだけでは十全に味わうことはできない。なので、「いつか実演に触れることができればなあ」と思っていたのに、近年、大阪でそれがなされていたのを知らずに聴き(観)逃してしまった……。残念無念。

2024年9月5日木曜日

スクリャービンの和音の豊かな響き

  スクリャービンの後期ピアノ・ソナタの音を実際にピアノで鳴らしてみると、とりわけ低音域の和音が豊かに響くさまに驚かされる。そのことは耳で聴くことでもそれなりに味わえるのだが、やはり自分で弾いてみる方がよくわかる。響きの豊かさのみならず、音楽の広がりも。

 私のようにピアノが下手な者だとテンポ通りには弾けないどころか、ゆっくり弾いても音楽が随所で停滞するのだが、その分、1つひとつの音の響きをじっくりと味わうこともできるわけだ。こうした音楽の楽しみ方もなかなか悪くはないと思う(もちろん、それは1人きりのときに行うものであり、絶対に人様には聴かせられない)。。

2024年9月4日水曜日

シューマンの交響曲のマーラー版を聴いて

  シューマンの交響曲の管弦楽書法にマーラーが手を入れたものを久しぶりに聴く。このCDを購ったのは随分昔のことだが、そのときはまだ原曲が頭に入っていなかったので、マーラーがどこをどうしたかがわからなかった。が、原曲にそれなりに馴染んだ今ならば、両者の違いを楽しめる。

 マーラー版を聴いてまず思ったのは、「ああ、音楽の風通しがよくなっているなあ」ということだ。シューマンの原曲は、こういっては何だが、管弦楽曲としては些か野暮なところがある。ただし、作曲者が自身のスコアの演奏効果を十分承知の上で書いているのだとすれば、マーラーの「手入れ」は「余計なお世話」だということになる。が、1つの「作品解釈」だととらえれば、マーラーの行ったことにも一理あると私は思う。ただし、それはもはや半分くらいは「マーラーの音楽」であり、そのようなものとして私は楽しんだ。

 それにしても、シューマンの交響曲は私にとっては長らく容易に近づきがたいものだった。それはやはり、他のいかにも「交響曲作家」の作品と比べてしまっていたからだろう。だが、あるときから、そんなことは気にせず、シューマンの他の曲種との繋がりで聴くようにしてみた。すると、「ああ、なるほど」と思えるようになったのである。とともに、この作曲家への愛がいっそう深まった。

2024年9月3日火曜日

間宮芳生氏はまだ存命だった

  湯浅譲二や篠原眞など、日本の「現代音楽」の黄金時代の立役者が今年になって亡くなったが、同世代の作曲家をもう1人思い出した。間宮芳生である。19296月の生まれなので、今年95歳。調べてみたら、まだ存命だった。

 間宮は保守派ではなかったが、前衛派だというわけでもない。おそらく、世の流行廃りなどはほとんど気にせず、自分が心の底から書きたい音楽を書き続けたに違いない。そして、その健康的な心性が長寿に繋がっているのだろう。

 私は間宮の作品にそれほど多くは触れていないが、自分が知っている作品はどれも好ましい。これからもっとこの人の音楽を知りたいと思っている。

2024年9月2日月曜日

歌の曲名に驚愕

  たまたま耳にした歌の出だしが耳に残ったので、それが何という曲名でどんな曲かを調べてみた。すると、驚愕の事実が。曲名は《高級フレンチよりあなたとつくる深夜のフレンチトーストがすき。》というものだったのだ(https://www.youtube.com/watch?v=GroNf3bPZBQ)。

そして、歌詞はこうである:https://www.uta-net.com/song/357217/。出だしの「ガリレオ ガリレ」という件はまことにキャッチーである。「なぜ、歌の冒頭でこんな歌詞が??」と不審に思い、続きが気になるのだ。そして、聴き続けると、あまりそれとは関係のない言葉が続く。そして、あの曲名である。すると、あたかもシュールレアリスムの絵画を見るような気分に襲われる(なお、これはあくまでも私の感じ方にすぎず、この曲にレアリスムを感じる人もいるのだろう)。なるほど、これはこれで面白い経験ではあった。

2024年9月1日日曜日

篠原眞も亡くなっていたとは

  「湯浅譲二亡き後、同世代の存命日本人作曲家は誰かなあ」と考えてみたら、すぐに浮かんだのが篠原眞(1931年生)である。しかし、心配になって調べてみると、果たして、今年に亡くなっているではないか! 33日のことだという。報道を完全に見落としていたわけだ。ああ、かくしてさらに遠ざかる日本の「現代音楽」の黄金の日々。