2024年9月8日日曜日

「現代音楽」における「旋律」の扱いの難しさ

  今週のNHK-FM「現代の音楽」は先週に続き、湯浅譲二の追悼番組であった。前回はホワイト・ノイズによる《イコン》(1966)やオーケストラのための《クロノプラスティク》(1972)などが取り上げられており、それらは私にも名作と思われるものだったので楽しく聴いた。

 ところが今週取り上げられたのはそれ以降の作品であり、こちらはあまり面白くない。とりわけ、《弦楽四重奏のためのプロジェクションⅡ》(1996)にはもやもやしたものを感じる。なぜだろう? おそらく、「旋律」の扱いがあまりうまくいっていないからだろう。「作曲=音響の構成」に徹していた頃の湯浅作品には「旋律」の問題は生じなかったが、ある時期以降、種々の協奏曲をはじめとして、「旋律」がそれなりの重要性を持つようになっている。にもかかわらず、それをうまく扱う方法論が作曲者の中で確立されていなかったのではないか(と私は邪推する。なお、「旋律」の扱いに関しては武満徹の方が格段に巧みであるように思われる)。

 これは何も湯浅に限った問題ではなかろう。つまり、「現代音楽」では「旋律」の扱いはまことに難しく(というのも、その土台となる「調性」を排してしまったからだが) 、この点からかつての「現代音楽」を見直してみれば、いろいろと面白いことや、これからの(反面教師的な)ヒントが見つかるのではなかろうか。

 

 今日はやや遠方まで演奏会を聴きに行ってきた。とても楽しく聴かせてもらった。その感想は明日に。