2024年9月18日水曜日

演奏の前提としての美音

  美音のヴァイオリニストとして私の脳裏に真っ先に浮かぶのはアルチュール・グリュミオー(1921-86)だ。その音はたんに美しいだけではなく、そこには独自の音調があった。それゆえ、現在聴いてもすぐにそこに引き込まれてしまう。

 さて、「美音」と言えば、ある時期以降の演奏家の大きな特徴であろう。とにかく、何を弾いても「美しく」鳴り響かせるのだ。が、そこにグリュミオーのような独自の音調を私が感じさせられることはほとんどない。少なからぬ場合、「ああ、美しいなあ。で、それで?」ということになってしまう。

しかしながら、彼ら・彼女らの「美音」は「個人の演奏スタイル」の結果ではなく、演奏の「前提」ととらえるべきなのだろう。すると、そこに心を奪われることなく、その先にあるものに耳を傾けないといけないわけだ。もちろん、その結果、大きな喜びを味わう可能性もあれば、とんでもない幻滅感に襲われる可能性もあろう。だが、いずれにしても、美音の先にあるものを聴き取ってみたいものだ。

 

私にとっては長らくショパンの方がシューマンよりも好ましい作曲家だった。が、近年、それが逆転している。その理由の1つに、ショパンの創作がほとんどピアノ独奏曲に集中しているのに対し、シューマンの創作が多くのジャンルにわたっているということがある。

昔は彼のピアノ独奏曲は楽しめても、若干の歌曲を除き、他のジャンルはそうではなく、何か「壁」のようなものを感じていた。ところが、あるときに彼の交響曲に親しみを覚えるようになってからは 、そうした壁は次第に取り払われていったのである。

というわけで、涼しい秋の訪れ(それはいつになるのだろう?)とともにシューマンの室内楽曲を大いに楽しみたいと思っている。