2024年9月9日月曜日

島田広先生の作品を聴きに

  昨日聴いてきた演奏会は「菅生千穂クラリネットリサイタル2024 三重公演」(於:青山ホール(三重県伊賀市))。私の自宅から電車を乗り継いでほど2時間半ほどの会場でのものだ。普段ならばかくも遠方に出かけることはまずないのだが、今回は別である。というのも、共演のピアニストが恩師だったからだ。

 その「恩師」とは作曲家の島田広先生。私が横浜国立大学の大学院で学んでいたときに助手を務めておられた方である(現在は教授)。年齢は私より3つ上なだけだが、当時多くのことを教わった(し、その後もいろいろ教わっている)。その先生がわざわざ演奏会の案内をしてくださったので、これを聴き逃す手はないと思い、喜び勇んで会場へ向かったわけだ。

 さて、肝心の演奏会だが、演目は次の通り:

 

 (前半)

F.クライスラー:美しきロスマリン

J.ブラームス:ヴァイオリン・ソナタ第2番作品100 (Eクラリネット版)

 

(後半)

島田広:流れ(2021年初演、委嘱作品)

 F.プーランク:クラリネット・ソナタ

 

私のお目当ては後半であり、期待通りのすばらしいものだった。

 前半のブラームスについても大いに好奇心はあった。が、音楽としては十分説得力のある演奏だったが、このヴァイオリンの名曲をわざわざクラリネットでやる意義があるようには感じられなかったのである。というのも、原曲でのヴァイオリンの豊かな鳴り響きが、クラリネットを用いることによってでは少なからず削がれていたからだ。ブラームスにはクラリネットのためのソナタ2曲があるが、そこでのいかにもクラリネットらしい、のびやかでたっぷりとした響きを思えば、今回の編曲版はどこか響きが不自然で寸詰まりに感じられたし、ピアノもそれに合わせて些か遠慮気味に聞こえた(原曲のピアノ・パートはヴァイオリンの響きに合わせて書かれたものであって、クラリネットでは随所で不釣り合いが生じる。このこともクラリネット・ソナタのピアノ・パートと比べてみればわかる)。まこと「編曲」というのは難しいものである

 その点、後半は心底楽しませてもらった。プーランクのソナタは音楽上のさじ加減が難しい曲である――つまり、過剰な表現では野暮になるし、さりとて表現を抑制すればよいというものでもないからだ――が、音楽づくりの面でも、クラリネットという楽器の魅力を味わわせてくれるという面でも見事な演奏だった。

 さて、この日の私のお目当て中のお目当ては島田先生作曲の《流れ》である。先生の曲は昔からいろいろ聴かせていただいているが、いつも感じるのはまさに音楽の「流れ」が自然であり、鳴り響きの面でも内容の面でも豊かであることだ。残念ながら近年の作品は聴く機会を得なかったが、今回の《流れ》がこれまでの先生の創作の発展形であると思われた。その始まりでは何の気負いも衒いもなく、すっと音楽が流れでてくる。その響きはどこかメシアンを思わせるが、彼の音楽のような強烈な求心性――つまり、終点に向かって有無を言わせずに聴き手を引っ張っていくようなこと――はない。が、聴き手をごく自然に音楽の流れの中に引き込んでくれる。そして、その流れに乗れれば、後は眼前(耳前?)に次々と繰り広げられる光景を聴き手がそれぞれに自分なりに安心して眺めていられるし、それを楽しむこともできるのだ。しかも、楽しいだけではない。曲を聴き進むうちに、その「流れ」の基調を成ものが朧気に感じられてきて、感動が深まっていく。一度聴いただけでは演奏時間25分に及ぶこの《流れ》を十分に把握できるはずもないが、(昨今の「現代音楽」作品では稀な)深い満足を味わうことができたし、もっとこの曲のことを知りたいと思った(言い忘れていたが、このように思うことができたのには2人の演奏のありようも大きく関わっている)。

 ところで、ピアニストとしての島田先生の演奏をきちんと聴いたのは実は今回が初めてだった。在学中には細切れではピアノを聴かせていただいたし、下手な私の連弾相手もしていただいたが、演奏会でのピアノに触れる機会はなかったのである。その意味でも今回の演奏会は楽しかった。というわけで、島田先生、そして、その機会を間接的につくってくださった(のみならず、すてきな演奏を聴かせてくださった)菅生さん、どうもありがとございました。