2024年9月26日木曜日

昨日の「メモ」の補足

  「音響の構成」とう作曲法を可能ならしめているのは、「調性の崩壊」と昨日話題にした「旋律の喪失」であり、もう1つには「音のオブジェ化」である。

 『黄昏の調べ』第3章で論じたように、そうした「構成」の頼りになるのは自分の耳の感覚だけである。そして、そこから多くの人を納得させるような(すなわち、普通の聴き手が構成をそれなりに耳でとらえられて、満足できるような)作品を産み出すのはそう簡単なことではない。

 しかも、その際、音楽が「上の空論」ならぬ「上の空論」に陥らないように細心の注意を払わねばならない。自分では音を聴けているつもりでも、いざ紙の上に音を書き出すとそれが「暴走」してしまい、鳴り響きと楽譜とが乖離しているようなものになってしまう危険性があるからだ(そうした「現代音楽」作品は少なくない)。

 もちろん、そうした難関を突破して生み出された名作もそう多くはないにしてもあるわけだから、「音の構成」という作曲法を完全に捨ててしまうのはもったいない。が、それを用いる作曲家は演奏家や聴き手の「現実」にもっと注意深く目を向け、それを最大限にうまく活用するようにすればよいのではないか、とも思う。