私の著書や翻訳にも恥ずかしながら誤記はある。校正で何度も見直したにもかかわらず。まあ、同じ人間が見ているがゆえに、却って見落としが生じるのかもしれないが。ともあえ、それを訂正する機会が訪れることを願うばかり。
さて、その誤記だが、主たる原因はワープロの打ち間違いと変換ミスである。それはつまり、原稿用紙に手で書いているのであれば生じないような誤りだ。そして、そうしたものは文章の書き手が自覚していないことが多いだろうから、校正の網の目をくぐり抜けて印刷にいたってしまうわけだろう(もちろん、だからといって、それが許されるわけではない)。
本に誤記があるのと同様、楽譜にも誤記はある。人間の手によってつくられるものである以上、それを完全になくすることは難しかろう。そして、楽譜の場合にも、今やコンピュータを用いてつくられるものが少なくないとなれば、ワープロを用いて書かれた文章と同じようなことが生じているに違いない。
たとえば、以前、Petersから出ているレスリー・ハワード校訂のリストの《巡礼の年・第1年「スイス」》のある曲で、信じがたいような音の誤記があった。が、これはいかにも楽譜作成ソフトを用いてつくられた譜面(ふづら)なので、たぶん、「打ち間違い」がもたらしたミスだろう。言い換えれば、すべて手でつくりあげた楽譜ならば、この手のミスは生じないに違いない。そして、だからこそ、校正をくぐり抜けてしまったのだろう。
「便利は不便の裏返し」とは言われる(?)が、それは「楽譜書きソフト」にも言えることだろう。なるほど、そうしたソフトによれば「手づくり」よりも格段に労力を省くことができよう。だが、それによってつくられる「譜面(ふづら)」は、今のところ手づくりの楽譜に比べて美しさと「音楽を感じさせる」点でまだまだ及ばないのみならず、手作りでは生じない「打ち間違い」をもたらすという点でも劣っているように思われる。
もちろん、「楽譜書きソフト」の欠点はこれからどんどん改められていくことだろうし、そうあって欲しい。が、それはそれとして、全面的に楽譜の浄書を機械任せにしてしまうと、手づくりの職人芸は廃れてしまうに違いない。だとすれば、それはまことにもったいない。何とか温存されて欲しいところだが、果たしてこれからどうなることであろうか。