クラシック音楽の演奏家がジャズ(これはあくまでも1つの例にすぎず、他のジャンルの音楽名を代入可能。以下同様)を弾けば、それは「クラシック音楽調」になってしまう。クラシック音楽とジャズとでは「音楽言語」(「演奏様式」と言い換えてもよい)が異なるからだ。
とはいえ、その「クラシック音楽調」ジャズを演奏家は恥じる必要はない。それは「翻訳」のようなものであり、それでちゃんとした音楽ができるのならば、全く問題はない。
が、それはクラシックの演奏家が主体となったパフォーマンスでのこと。ジャズのミュージシャンが主体となる場合には、「音楽言語」の異なるクラシックの演奏家は「浮いた」存在となってしまうだろう。
もちろん、「クラシックの演奏家にはジャズは無理だ」ということでは断じてない。複数の言語を流暢に操る人がいるように、音楽でも異なる音楽ジャンルを巧みにこなす人はいるものだ(たとえば、フリードリヒ・グルダ)。だが、そのためには、フィーリングのみに頼る小手先のやり方ではダメで、「外国語」会話を学ぶようにしてジャズを身につける必要があろう。そして、それはそう簡単なことではないはずだ(なお、その逆、すなわち、ジャズ・ミュージシャンがクラシック音楽を魅力的に奏でる場合もある。今から40年ほど前、ジャズ・ピアニストがモーツァルトの協奏曲を弾くという演奏会が日本で催され、チック・コリアやキース・ジャレットがまことにすてきな演奏をし、私はそれを放送でのみならず、エア・チェックで繰り返し聴いた。それはクラシック音楽の演奏として十分説得力を持つものだった。それを疑う人は、チックがグルダと共演したモーツァルトの《2台のピアノと管弦楽のための協奏曲》や、キースによる種々のクラシック作品の録音を聴かれたい)。