「民族の差にかかわらず、人間の普遍的無意識に訴えかけられるような音楽が書けたら一番すばらしい」と湯浅譲二は言う(湯浅譲二・西村朗『未聴の宇宙、作曲の冒険』、春秋社、2008年、185頁)。なるほど、そのような音楽があるとすれば、どんなものか私も聴いてみたい。が、たぶん、それはありえないだろう。「言語」の壁がそれを阻むだろうからだ。
とはいえ、系統が全く異なる言語を話す者同士の間ではある1つの音楽が決して同じように聞こえることはないとしても、その同じ音楽に(受け手によってその内実は異なるとはいえ)感動できるということはあろう。そして、それで十分ではないだろうか。湯浅が目指した音楽もそうしたものだと考えれば上記の発言には大いに頷けるし、たぶん、その聴き手の数は「クラシック音楽」に比べてさほど多くはないかもしれないが、彼はあれこれの自作でその試みに成功していると言えよう。