少し前に遠山一行への関心を話題にした。その後、『著作集』全6巻を古書で購い、少しずつ読み進めている。面白い。そして、批評の確かさと鋭さにはただただ脱帽するばかり。たとえば、「前衛音楽」の創作、カラヤンやミケランジェリなどの演奏家、レコードという媒体などにおいて西洋芸術音楽の「伝統」が大きく変わり、何かが失われていることを遠山は舌鋒鋭く説くのだが、その批評は今でも十分読むに耐えるものだと思う。遠山はそうした変化に好意的ではないのだが、その理由が理路整然と述べられており、読者を自分なりの思索へと誘ってくれるものだ。それこそカラヤンやミケランジェリ、そして、「前衛音楽」に好意的な者をも。
ただ、私には1つ、どうしても腑に落ちないというか、不思議というか、とにかく理解できない点がある。遠山の文章からは西洋の伝統との一体感、言い換えれば、そうした伝統に己がしかと繋がっている、との確信のようなものが感じられるのだが、これが私にはどうしてもわからない(し、そうした確信を自分が持つことは絶対にありえない)。たとえ西洋で学び、彼の地の人たちと交流があったにせよ、日本で人としての土台を築き、そこで日々生きている者が、なぜにそのような確信を抱くことができたのだろう? もちろん、さればこそ、遠山は一連の優れた批評を書くことができたのだろうが、とにかく私には大いなる謎である。
が、それはそれとして、私にとって遠山の批評が刺激的で、読んでいて楽しいものであることに変わりはない(武満徹の「取り巻き」たちの手になるものよりも、遠山の武満論の方が格段に説得力があるように私には思われる)。書かれている事柄にいろいろ反論・異論は浮かぶものの、とにかく「読ませる」ものであり、そして、「考えさせる」ものであるのだから(この遠山を含む、日本の音楽批評、評論の「語り」を歴史的に通覧し、日本の洋楽受容の一側面を探る研究があってしかるべきだと思うが、これは若手に期待しよう)。