少年時代、闇雲に目についたものから片っ端に小説を読み進んでいった。中には感動したり、とても面白く感じたりしたものがあったが、「?」なものも少なくなかった。が、長じてわかったのは、「文学作品を理解し、味わうにはある程度の人生経験が必要だ」ということである。そして、事実、随分時を経てから再読した小説の中には「なるほど、そういうことだったのか!」と腑に落ちて感動したものもあれば、「なんだ、この程度のものに感動していたのか」とがっかりすることもあった。が、いずれにせよ、そうした「読み方」に変化が生じることが自分にとってはまことに面白く、興味深い。
こうしたことはなにも小説に限ったことではない。音楽作品についても当然、同じ事が言える。たとえば、このところ(季節柄)チャイコフスキーのバレエ音楽を楽しんでおり、何とも親しみやすい音楽の表面下にある奥深さに私は今更ながらに感銘を受けているが、それは少年時代には決して感じることのなかったものだ。もちろん、少年には少年なりの音楽理解があり、それはそれで意味があったと思うが、その後の「経験」がその意味に厚みや奥行きを加え、変容させてしまったわけだ。そして、そうしたことがあるからこそ、人は同じ作品を繰り返し演奏し、聴くわけであろう。ただし、その際に「かつての自分」に固執せず、その都度の機会を「新たな出会い」の場とするだけの柔軟さが必要だ。さもなくば、「繰り返し」はたんなる自己確認、自己愛、自己弁護、等々の場になってしまうから……(などといったことが、チャイコフスキーを楽しんだ後、ふと頭に浮かんだ)。