昔にはよさがあまり(あるいは全然)わからなかった作品が、今聴いてみると面白かったり感動したりするということが少なからずある。これは嬉しいものであり、なんだか「得した」気分になる。が、逆に以前に感動した名作に久しぶりに触れて、あまりのつまらなさに愕然とし、何かしら寂しさを味わうことも。
先日、その後者の場合があった。日本人某作曲家の管弦楽曲で、スコアもわざわざ大学から借りてきて聴いてきたのだが、全く胸が躍らない。昔はあれほどわくわくしたのに今や‘Nel cor più non mi sento’であり、‘che cosa è qesto ahimè?’なのだ。のみならず、この作曲家の他の作品までも急激に色褪せて見えてきた。
もちろん、これはあくまでも私個人の感じ方であり、一般化するつもりはないし、その作曲家を貶めるつもりはない(ので、「某作曲家」としたわけだが)。が、自分が「つまらなく」感じた理由は述べておきたい。まず、その作品が「音の出来事(音響事象)」によって構成されたものであり、そのこと自体はよいのだが、結局、その「出来事」の連なりに説得力がまるで感じられなかったということがある。次に、それをわざわざ大きな管弦楽でやらねばならない必然性も感じられなかった。それはこの作曲家が得意とした電子音楽作品でやればよいことであって、それを生身の人間がやることにどれだけの意義があるのか、甚だ疑問である(たぶん、少なからぬ楽員は苦痛だったのではなかろうか)。ともあれ、その作品を聴きながら、「ああ、これを聴くことはもうあるまい」と感じた。残念、かつ、わびしいことである。