私は拙著『黄昏の調べ』でこう述べた。「ドビュッシーの音楽においてその[=音楽の形式や進行を導く]力を持つに到ったのは、[色彩×運動=]音響としての個々の出来事とその構成である」と。この点で彼を「現代音楽」の大きな源流の1つとして説明する中でのことだ。
だからといって、ドビュッシーがそれまでの音楽のありようと完全に「切れて」いるわけではないのは言うまでもなかろう。彼の音楽には紛れもなく「歌」と「踊り」があるのだから。それゆえ、そうしたドビュッシーの音楽のどこに焦点を合わせるかによって演奏のありようは異なってくる。昨日話題にしたカサドシュの演奏はどちらかといえば「歌」と「踊り」を重んじるものであり、昨今の(どっちつかずの並の演奏を度外視するとして……)優れた演奏は「音響」重視のようだ。これはどちらが正しいというものではなく、それぞれに面白い。が、両者の間でのさじ加減を変えることで、まだまだ別の演奏解釈がドビュッシーのピアノ曲では可能なはずだ。