かつて、音楽を大学で学びたくとも「私大の学費(+都会での生活費)は高すぎて払えない!」とか「国公立の芸術大学はレヴェルが高すぎる!」とかいった人たちにとって格好の学びの場があった。それは国立大学教育学部の音楽科である(「かつて」と言うのは、文科省が何度か行った大学の組織改革のために、今や少なからぬところでかなりの規模縮小がなされているからだ)。
「教育学部」というと、つまりは「教員養成学部」であり、そこへの進学者は概ね小中高の教員志望者だったが、必ずしもそれだけではなかった。諸般の事情(経済的理由、才能・能力、その他)で都会の音楽大学や芸術大学へは行かず(行けず)に教育学部音楽科へ進学した者も少なからずいたのである(かく言う私も学部は地方の教育学部の音楽科を出ている)。
都会の音大を出ても実際にプロの音楽家として食べていける者など暁天の星であり、大多数の学生にとって大学は実質的に「教養教育」の場である。とすれば、地元の国立大学で廉価な学費(それすらも私は払えず、初回を除いて免除で通したが……)と廉価な生活費で音楽を学ぶというのはなかなか悪くない選択肢だった。しかも、小中高の教員の道を選べば、かなりの割合で就職できたわけだから(事実、私の同級生はほとんどが教員になった)、地方在住者にとってはなかなかに「花も実もある」学びの場だったと言えよう。
そして、そうした教育学部音楽科は学生にとって有意義だっただけではなく、地方の音楽文化の中でも――とりわけ、文物の流通が今よりも格段に不便で、それだけに地方がある種の独立性を持っていた時代にあっては――少なからぬ役割を果たしていたはずだ(都会の音大(芸大)の同窓会組織と並んで)。教員や学生による演奏会は元々演奏会が少なかった地方都市では(今はともかく、昔のある時期までは)それなりに大きなイヴェントだったし、教員はその地方にあって貴重なレスナーであり、音楽活動の組織者でもあった。
それゆえ、日本の西洋音楽受容と実践の歴史を振り返る上で「国立大学の教育学部音楽科」というのはなかなかに興味深い着目点だと私は思う。どこかの地方に的を絞って論じれば、地方文化史の研究としても面白いものになるのではないか。というわけで、この問題に取り組む奇特な人の登場を待ち望む。