ベルント・アロイス・ツィマーマン(1918-70)の傑作《フォトプトシス》(1968)を私がはじめて聴いてから35年にもなる。以来、折に触れ、ときにはスコアを眺めつつ、この作品を聴き続けてきた。今日もまたWergoから出ている(元はLPだったものがCD化された)アルバムで聴いたが、いまだに深い感動を味わうことができる(それとは別の演奏だが:https://www.youtube.com/watch?v=K0FZKQukKL8)。
今までに数多の「現代音楽」作品を聴いてきたが、このようなことは実はあまりない。すなわち、ある作品に対して、あるときに「すばらしい!」と感じても、多くの場合、やがてはじめの感動は色褪せていったのである(たとえば、ピエール・ブゥレーズのほとんどの作品がそうだ)。もちろん、逆のこともある。つまり、はじめは「どこがよいのか、さっぱりわからない!」と思った作品でも、後年、「これほど面白い作品だったとは……」と驚かされることもあるわけだ。が、いずれにせよ、自分にとって長い間変わらず輝きを放ち続ける「現代音楽」作品がさほど多くはない(とはいえ、ごく稀だというわけでもないが……)ということに変わりはない。
では、そのように長く楽しめる「現代音楽」作品はそうではないものとどこが違うのだろうか? これはそのうちじっくりと考えてみたい問題だ。そして、『楽しく聴く現代音楽』と題した非マニア向けの読み物をいずれ書ければいいなあと思っている。
その後、『失われた時を求めて』を蝸牛のごとくゆっくりと読み進んでいる。鈴木道彦は文章自体は平明なのに、ちょっとした語句の選び方や表現のためにしばしば「躓き」をもたらす。そこで他の訳を読み比べ、「ああ、なるほど、そういうことだったのか」と納得する次第。鈴木の解説本はまことに読みやすく、啓発されるところ大なのに、肝心の翻訳が読みにくいのは残念。