ピアニストのクラウディオ・アラウはリストのある種の作品については演奏で「つくられねばならない(have to be made)」と言う(ジョーゼフ・ホロヴィッツ『アラウとの対話』(野水瑞穂・訳、みすず書房、1986年、156頁)。彼が例としてあげているのは、たとえば《超絶技巧エチュード集》の〈マゼッパ〉や〈夕べの調べ〉といった曲であり、後者については「あのアルペッジョはともすればつまらない響きに墜ちる可能性がある」(同)と具体的に語っている(なお、アラウは応〈オーベルマンの谷〉はそうした類の作品ではないと言うが、私はこの曲もかなり「きわどい」ところにあると思う)。
これはともするとリストの作品の未熟を指摘する言葉にもとられかねないが、アラウの本意は決してそうではない。リスト作品には演奏のありようが大きく関わっていると彼は言いたいのである。もちろん、リストの膨大な作品のすべてが傑作、名作だというわけではないが、少なからぬ作品が実際の「演奏」のことを考慮に入れていないがために低評価に留まっている可能性は十分にあろう。そうした作品は並の演奏では持ち味を発揮できないのである。演奏技巧はもちろん、音楽性の面でも並外れた演奏によってこそ、すなわち、聴衆をひきつけるパフォーマンスによってこそリスト作品は光り輝く、というわけだ。
そして、それは何もリスト作品に限ったことではあるまい。少なくとも19世紀までの「自作自演が当たり前」だった頃の作品を評価する際、演奏のありようを度外視するわけにはいかないのではないか。そして、その意味で、「楽譜をきちんと音にしました」式の演奏は19世紀の「埋もれた」作品の再評価にとってはむしろ有害だと言えよう。その時代の作品を扱うには、やはり演奏の流儀もそれにふさわしいものである必要があろう。そして、たぶん、「演奏」というものに対する根本的な意識変革が求められるのではないだろうか。だが、それは今や衰退の一途を辿る「クラシック音楽」にとって何らかのプラスをもたらすはずだと私は思う。