今からちょうど30年前、当時住んでいた横浜でたまたま岡村喬生(1931-2021)が歌う《冬の旅》のCDを見つけ、ちょっとした好奇心から購い、しばらく愛聴していたことがある。岡村の歌は濃密な表現に彩られており、時折音程がぼやけるところがあっても、それも「表現」のうちだと思い、あまり気にならかった。他方、ピアノの高橋悠治の演奏はまことに淡々としたものなのだが、それがまた岡村の表現の効果をいっそう強めているように感じられた。とにかくなかなかに面白い演奏だと当時は感じていたのである。
さて、その岡村の《冬の旅》を今日、随分久しぶりに聴いてみて大いに驚いた。一音一音を情緒纏綿と歌いあげ、母音を朗々と響かせ、こぶしのごときものを利かせるさまはまるで「演歌」ではないか(この「演歌」というジャンルとその歌唱スタイル自体については、私はこれはこれで面白いものであるなあと感じている。そして、「並のクラシックの歌手」よりも「優れた演歌歌手」の歌の方に心惹かれる)。もちろん、それはそれで面白いし、当人にとってこのように歌う必然性があったのだろうと思わせる歌唱ではある。が、だとしても、これはドイツ語歌曲のノーマルな歌唱ではない(と30年前の私は気づかなかった……)。
岡村はイタリアで学んだのち、オーストリアやドイツの歌劇場で専属歌手を務めた経歴の持ち主だが、当時は当然、この《冬の旅》のような歌い方はしていなかったはずである(さもなくば、当地で通用したはずがない)。だとすると、海外生活を切り上げて本拠地を日本へ移したのちに、こうしたスタイルへの変化(あるいは回帰?)が生じたことになる。
私は何も岡村の歌を批判したいのではない。また、たぶん、これからも(ごくたまにではあっても)彼の《冬の旅》を楽しく聴くことだろう。だが、それはそれとして、彼のシューベルトの歌唱に「西洋音楽の日本化」の一端を見ないわけにはいかない。そして、それだけに、そうした岡村の《冬の旅》はこの問題を考える上で、いろいろと材料を提供してくれているように思われる。
私は「原典至上主義者」ではないので、オペラの日本語上演には反対でない(どころか、もっと行われてもよいとさえ考えている)し、松本隆の訳詞による《冬の旅》を実演で聴いてみたいと思っている。