2021年8月13日金曜日

今度こそ「時」は「見出され」るであろうか?

 岩波文庫で『失われた時を求めて』の最初の巻が出たとき、「今度こそは完読してみせる!」と意気込んで読み始めたものの、ほどなく挫折してしまった。以前に井上究一郎訳で読了に失敗したときには読みにくい訳文が躓きの石だった(と思っている)。が、それに比べれば岩波の吉川一義訳は格段に読みやすいので、挫折の原因はこの小説が私を寄せ付けなかったということにあると考えざるを得ない。悔しいが仕方がない。何事にも「相性」というものはある。いくら自分が近づきたいと思っていても、向こうの方で拒むことがあるのは人間関係に限らず、種々の文物でも同じこと(たとえば、小説ならば森茉莉の『甘い蜜の部屋』などがそうだ。これは妻の愛読書で、勧められて読んでみたのだが、ものの見事に作品に拒まれてしまった。読んでいるとなんだかむずむずしてしょうがないのだ。そして、こう言うアウトサイダーの私に対してインサイダーの妻は意味深に「ふふふ」と笑うのである)。

 ところが、その『失われた時を求めて』に三たび挑んでみようという気になっている(これは遅々として進まない原稿書きからの現実逃避か!? いや、そんなことはない……と思いたい)。きっかけはご近所図書館で借りてきた鈴木道彦『プルーストを読む』(集英社新書、2002年)を読んでみてのことだ(まあ、こういう本を借りてくること自体、まだ「諦めきれない」という気持ちがあるからだろう)。著者はこの大河小説の2人めの個人完訳者だが、まことに面白くかつ明瞭に「読みどころ」を示してくれるものだから、ついその気に……。今回は3種類の訳、すなわち、鈴木道彦訳、吉川一義訳、そして、高遠弘美訳を並べてごくゆっくりと読み進めてみるつもりだ。さて、今度こそは「時」は「見出され」るであろうか?

 音楽作品でも当然、これまで私を寄せ付けなかったものがいろいろある。その代表格はブルックナーだ。昔は聴くだけで気分が悪くなったが、近年はそういうことはなく、心穏やかに耳を傾けられるようにはなっている。とはいえ、まだまだ本当に馴染んでいるというわけではないし、何が何でも無理に馴染もうとも思っていない。ただただ成り行きに任せるのみである。ブルックナーに限らず。