『失われた時と求めて』の第一篇「スワン家のほうへ」を三たび読み始めた。3種類の翻訳、すなわち、鈴木道彦訳(集英社文庫)、吉川一義訳(岩波文庫)、高遠弘美訳(光文社古典新訳文庫)を並べてである。今回はとにかく焦らず、内容が腑に落ちるまで先へ進まないことにしているのだが、最初の1頁めから躓いてしまった。日本語のちょっとした言い回しに納得がいかないのだ。
その箇所をあげてみよう。まず、次の件:「私はまだ手にしているつもりの本をおき、明かりを吹き消そうとする。眠りながらも、たったいま読んだことについて考え続けていたのだ」(鈴木訳。他の2つもほぼ同じ)。一見、ごく普通の日本語に見えるが、よく読むと微妙に変だ。この箇所は「語り手」が眠りから覚めたあとに続くものなのだが、「つもりの」ものを「置く」ことなどできるものだろうか? そこで原文を見てみると、こうある:‘je voulais poser le volume que je croyais avoir encore dans le mains et souffler ma lumière’ すなわち、「置くposer」という動詞は「息を吹きかけるsouffler」という動詞と並列で、両者の前にvoulais(「望む、欲するvouloir」の半過去形)という準助動詞がついているのだ。ということは、「おき」ではなく、「おこうとして」とするのが正確であり、これならば日本語として理解できる(鹿島茂『「失われた時を求めて」の完読を求めて――「スワン家の方へ」精読』(PHP研究所、2019年)では「本を[……]置こうとして、蝋燭を消そうとする」ときちんと訳されている)。半分寝ぼけているのならば「おこうとする」ものを実際に「手にして」いないということはありうるからだ(もちろん、上記の3人の訳者は「おき」も「~しようとする」にかかるものとして訳したに違いない。が、「、」が途中に入るものだから、訳文だけを見ている者にはそうは読めないだろう)。
別の例をあげよう。「眠りながらも[en dormant]、たった今読んだことについて考えつづけていたのだ」(鈴木訳。高遠訳もほぼ同じ)――「眠りながら」「考える」? ここは吉川訳のように「じつは眠っているあいだも、さきに読んだことをたえず想いめぐらしていたようで」[……]」とされると腑に落ちる(鹿島訳は「眠ろうとしながらも」としており、訳文を読むだけならば問題ないようだが、原文を見る限りでは意味が異なっており、これは「誤読」だと思う)。あるいは、その続き「ただしその考えは少々特殊なものになりかわっている」(鈴木訳)、「それ[=想い]がいささか特殊な形をとったらしい」(吉川訳)――これもちょっとわかりづらい。高遠訳では「ただ、その思いは少し奇妙な形をとっていて」とあり、これならばすっと読める(吉川訳とほんのわずかしか違わないが、その「わずか」が大切なのだ)。
もちろん、原文の意味を3人の訳者たちが理解していないはずはない。そして、原文に正確に訳そうとしたはずなのである。が、結果は上で述べた通り。なぜ、そんなことになるのか? それは彼らが原書を十分に読みこなせるだけではなく、その内容がしかと頭の中に入っているからだろう。そして、そのことが訳文の日本語としてのちょっとした傷に対して目をふさがせているのではないだろうか。
普通の読者はこの小説を訳文だけで読む(私も基本的にはそのつもりだ)。となると、翻訳は「おや、この日本語はどこかおかしいぞ」と思わせてはならないのではないか。もちろん、全く無傷の翻訳などありえないが、その数はできるだけ少ない方がよいわけで、最初の方から「?」と読者に思わせるのはやはりまずいだろう( 同じ頁にはもう1つ、なかなかに「?」な箇所があるのだが、ここではもう触れない)。しかも『失われて時を求めて』のような大長編の場合、「塵も積もれば山となる」であり、それが読者を挫折させることにもありかねない。
私は何も3つの翻訳をあげつらいたいわけではない。むしろ、彼らの訳業に尊敬と感謝の念を抱いている。それらが昔の翻訳よりも格段に読みやすいのは間違いなく、だからこそこれから彼らの翻訳によって大長編小説を読み進んでいく決意にも変わりはない。が、それはそれとして、「翻訳というものはやはり難しいものだなあ」と改めて感じた次第を述べておきたかったのである。
今日は敗戦記念日。反省がなければ歴史はまた繰り返されるであろう。しかも、もっと酷いかたちで。