キリスト教の非信者がたとえが合唱で‘Jesu, meine Freude(イエス、わが喜び)’などと歌うとき(私も昔、歌ったことがあるが……)、その歌い手が行っていることは何なのか?
そのときはいわば「役者」のごとく、音楽作品という劇で何らかの役割を演じているということなのだろうか。つまり、芝居で犯罪者を演じる者が現実には犯罪者でないのと同様、キリスト教(この場合はプロテスタント)を信じていなくとも「信者」を演じることはできる、というわけだ。
昔の自分ならば、この説明で納得しただろう。が、今はそうすっきりとは割り切れない。聴き手としてならば自分が信じていないキリスト教の音楽でも「作品本位」で楽しむことができるが、自分が歌うとなると、ある種の「嘘」をついてしまうことになり、そのことに何か心理的な抵抗を覚えてしまうようになった。
というわけで、今の私はもはや‘Jesu, meine Freude’と歌うことはしない(もちろん、これはあくまでも私個人のことであり、「歌う」人のことを否定するつもりは全くない)。聴くだけならばこれまで同様喜んで聴くが、当然、その聴き方は「信者」とはかなり違ったものにならざるをえない。もっとも、同じ音楽を「聴く」ことを通じて非信者の私と信者(が属する世界)との間に何らかの接点ができるし、それはまことに貴重なことだとは思っている。