いやはや驚いた。シェーンベルク晩年の生徒にして、彼についての研究書も著しているディカ・ニューリン(1923-2006)がまさかこんなことをしていたとは……:https://www.youtube.com/watch?v=79JDD5gHR1k。なんともcoolではないか。やはりシェーンベルクの生徒だった(こともある)ジョン・ケィジ同様、ニューリンのこの「尖った」ところは師匠に負けてはいない。
2025年3月11日火曜日
2025年3月10日月曜日
ライナー・リーン
ドイツ・グラモフォンの「アヴァンギャルド」シリーズ(21枚組)中のジョン・ケィジの音楽を収めたCDを再聴した。演奏はライナー・リーン(1941-2004)指揮のアンサンブル・ムジカ・ネガティヴァ。
このコンビは(今は亡き)EMIからもケージ作品集を出しており、私は昔々こちらの方を愛聴していた(当時はLP。ただし、すでに廃盤だったので中村(金澤)攝さんから借りてカセット・テープにコピーした。その後、このディスクがCD化された際には購い、今でも時折楽しんでいる)。
「ムジカ・ネガティヴァ」という名前はいかにも60年代後半に若者だった人がつけそうな名前である(「これはアドルノに由来するものだろうなあ」と思っていたら、やはりそうだった:https://www.deutschlandfunkkultur.de/das-ensemble-musica-negativa-music-before-revolution-100.html)。そして、そこで取り上げられた音楽もまた、既存の芸術音楽を「否定」するものだった。
だが、「否定」はいつまでも続けられるものではない(とはいえ、このアンサンブルの最後の演奏は1992年だとのこと)。その後リーンは有名なMusik-Konzepte叢書を創刊して編集者となり、さらにはフランクフルト(アドルノの生地!)歌劇場の顧問も務めている(https://www.mqw.at/institutionen/kulturmieterinnen/artists-in-residence/2010/rainer-riehn)。もちろん、それらの活動の中にも「否定」の精神は生きていたことだろう。20世紀後半の芸術音楽史の登場人物の1人してなかなかに興味深い存在である。
2025年3月9日日曜日
石川健人《Addictive Circuit for Orchestra》を楽しく聴く
今日、NHK-FM「現代の音楽」で放送された石川健人《Addictive Circuit for Orchestra》はなかなかに楽しい作品だった。それは聴いている最中だけのことではなく、その後にも余韻が残り、「ああ、もう一度聴いてみたいな」と思わせるものだったのである。
放送では《メルティングポットを超えて Ⅱ》という作品も取り上げられたが、これは時間の都合により途中でカットされた。「残念!」と思っていたら、YouTubeに音源があるではないか(https://www.youtube.com/watch?v=12TsPx4nhag)。というわけで聴き直してみたが、やはり面白い。この作曲者はまだまだ若い人なので今後が大いに楽しみだ。
同じくFMの「名演奏ライブラリー」も聴いていたところ、マルチヌーのヴァイオリン・ソナタ第3番に強く惹かれた(今日聴いた演奏とは異なるが、楽譜付きのものをあげておこう:https://www.youtube.com/watch?v=At6IGdHQbZE)。プロコフィエフより1歳年上のこの作曲家のことは嫌いではなかったものの、積極的に聴いてきたわけではない。が、今日、たまたま聴いたこのソナタには驚いた。「こんな面白い作品を書く人だったのか!」と。ということはつまり、これまでこの人の作品をきちんと聴いていなかったか、もしくは自分の聴き方が変わったかdのいずれかであろう。ともあれ、これからもっとマルチヌーの音楽を知りたいと思った。
2025年3月8日土曜日
もちろんラフマニノフは「十九世紀ロマン派の音楽家」などではない
かつて音楽史におけるラフマニノフの扱いは酷いものだった。たとえば、次のように――「まったく、十九世紀ロマン派の音楽家だ。そうして、ピアノ協奏曲にしても、チャイコフスキーの後塵を拝しているにすぎない」(『吉田秀和全集・第7巻』、197頁。なお、この一節は1961年に刊行された『私の音楽室』中のもの。それゆえ、その後、同書の著者が考えを改めている可能性はあろうが、その点は未確認。あくまでもかつてこういう意見があったということを示すためにのみ引用した)。だが、今やこんな馬鹿げたことを言う人はいないだろう。ラフマニノフは(19世紀のものを多く受け継ぎ、創作に活かしていることは間違いなにいしても)れっきとした20世紀の作曲家であり、彼の作品には独自性がしかと刻印されているのだから。
先の引用でチャイコフスキーの名が出てきたが、その有名なピアノ協奏曲第1番とラフマニノフの第2番を比べてみれば、後者が決して「後塵を拝しているにすぎない」わけではないことはいろいろな面から容易に見て取れる。たとえば、第1楽章主要主題が弦楽器によって奏でられるときのピアノの音形。チャイコフスキーなどの19世紀の作曲家ならば、こうした場面ではもっと規則的ですっきりした書き方をするものだが、ラフマニノフはそうはしてしない(次の動画の楽譜を参照:https://www.youtube.com/watch?v=3x0SSK_UWxU)。それはかなり複雑な動きをしており、独特の「うねり」を生み出している(このくねくねした曲線を見て、同時代の美術のユーゲント・シュティールやアール・ヌーヴォーを思い浮かべるのは私だけではあるまい)。この箇所以降にも「十九世紀ロマン派の音楽家」の流儀とは異なるもの、そして、もっとのちの時期のいっそうモダンな作風に繋がる要素がいろいろと見つかるはずだ。
2025年3月7日金曜日
メモ(142)
「本当に日本にオペラを根付かせたいのなら、圧倒的にすばらしいインパクトのある、日本語による、日本の現代オペラ作品の存在が必要なのではないか」というのは正論ではあろう(大友直人『クラシックへの挑戦状』、中央公論新社、2020年、83頁)。しかもそうしたオペラが「目の前の聴衆が喜んでくれるか、感動してくれるかを大事にする」(同、86頁)ものでなければならないという点にも大いに頷ける。
だが、それはそれとして、日本語のテキストによるオペラではなく、それとは異なる、もっと日本語や日本語的演奏の現実に即した音楽劇というものがあってもよいのではないだろうか? 母語であるにもかからわず字幕を必要とするようなものではなく、すっと言葉と音楽が耳に入ってきて、自然にドラマに引き込んでくれるような作曲様式と歌唱様式による音楽劇が。
2025年3月6日木曜日
ショパンの新発見のワルツ
昨年、つまり2024年にショパンのワルツが新たに発見されたそうだが、このことを遅ればせながら今日知った(https://www.youtube.com/watch?v=R5EGPlzQ4MA)。そのうち楽譜も出版されるのだろう。そして、ポーランド・ナショナル・エディションなどにもいずれこの曲(https://www.youtube.com/watch?v=XShSRvHw-ek)が加えられることになるのだろうか(真作であるとの判断が覆されない限りは)。
もっとも、作曲者が生前に出版しなかったのにはそれなりの理由があるはずで、そうした作品まで掘り出してきては期日の下にさらすというのは作曲者に対して些か気の毒だと思わないでもない。
たぶん、これからしばらくの間、この曲はアンコール・ピースとして人気を博することだろう。
2025年3月5日水曜日
好きな演奏解釈ではないものの
今朝のNHK-FMでたまたまジャン=マルク・ルイサダ(1958-)が弾くリストのソナタを聴いた。日頃全く聴かないピアニストだけに、どう弾くかに好奇心があったのだ。嫌になったら途中でやめるつもりだったが、最後までそうはならなかった。つまり、彼の演奏は私の注意を引き続けたのである。
とはいえ、私はルイサダの解釈に賛同するわけではない。むしろ、随所で「なぜ、ここでこう弾くかなあ」と思わされ、もやもやした気分になった(もちろん、これはあくまでも私個人の感じ方にすぎない)。にもかかわらず、「ああ、こんな解釈もあるのだなあ」と素直に思いもする。とともに、そんな私に最後まで聴かせてしまうこのピアニストの力量に感嘆させられもした。それゆえ、またいつかたまたまルイサダの演奏を聴ける機会があればいいなあと思う。
先日、やはりラジオでたまたま権代敦彦(1965-)のピアノ曲《無常の鐘》(別の音源:https://www.youtube.com/watch?v=PIdCW9ci7Qs)を聴いた。以前何曲かこの作曲家の曲を聴いた際によい印象を受けなかったので、その後全く聴かずに過ごしてきたのだが、このときはなかなか面白く感じた。自分の聴き方が何かしら変わったからだろうか。ともあれ、これはうれしい驚きである。
このように以前は嫌いだったり苦手だったりしたものが平気になることもあれば、逆に大好きだったものに嫌気がさすようになることもあろう。が、いずれにせよ、その時々の自分の感じ方を大切にしたい。そして、できれば、前者の変化が多くありますように。
2025年3月4日火曜日
ブラームスの「間奏曲」は何の「間」に収まるものなのか?
ブラームスの一連のピアノ小品には「間奏曲」と題された曲が少なからずある。が、「前奏曲」は1つもない。これは彼の音楽の性格をある一面で示していることかもしれない。
「間奏曲」という曲名からすれば、それは何か他のものの「間」に奏でられるものだということになるのだろうが、ブラームスの小品集はいきなり「間奏曲」から始まるものや、「間奏曲」しかないものもある。すると、彼の「間奏曲」は必ずしも音楽に対するものではなく、他の何かの「間」に収まるものなのかもしれない。
スクリャービンの後期ソナタを「塗り絵」していると、その音組織のありよう(この時期、彼は「8音音階」を重要に駆使している)がかなりよく「見える」ようになる。
2025年3月3日月曜日
聴けばすぐにわかることを……
名作曲家の作品を聴けば、すぐに「ああ、いかにもこの人の音楽だな」ということがわかる「印」がある。今朝もラジオをつけると耳に飛び込んできた音楽に対して、「もしかして、これはシベリウスでは?」とすぐ(1、2秒ほどの間)に思ったが、果たしてそうだった(ちなみに、最後まで聴いてわかったことだが、その作品は第3交響曲だった。私はシベリウスが大好きなのだが、7つの交響曲のうちもっともなじみが薄く、全く頭に入っていなかったのがこの第3だ)。つまり、その瞬時の音にシベリウスならではの何かが刻印されていたことになる。そして、耳はそれをとらえることができたわけだ(これはある程度その作曲家の作風に馴染んでいる人ならば普通にあることだろう)
さて、その「聴けばすぐにわかる」ことを言葉で説明しようとすると、これがなかなかにたいへんだ。先の例でいえば、1、2秒ほどの音楽から「シベリウスらしさ」を説明しようとしても無理だろう。そうした説明のためには、もっと長い部分を取り出し、しかも、他の作品をも引き合いに出さないわけにはいくまい。そして、そうしていくら多言を費やしたとしても、耳で聴き取った「(特定の)作曲家らしさ」をうまく説明できるとは限らないのだ。
というわけで、音楽という(表現)媒体の「不思議さ」に改めて目(耳)が開かれる思いがした次第。
2025年3月2日日曜日
主役はヴァイオリンではなくピアノ?
昨日話題にしたフランクのヴァイオリン・ソナタについて、往年の名ヴァイオリニスト、ナタン・ミルシテイン(1904-92 )は興味深いことを述べている。曰く、
原理的にピアノはヴァイオリンと相性が合わない[……]。結局、言ってみれば、ピアノは打楽器なのだ、そのため、たとえピアノとヴァイオリンのための最高の作品であっても、実際に音を出してみると、どこか不自然に響く。有名なフランクのソナタの第二楽章では、ピアノはヴァイオリンをかき消すほど多くの音を弾く。そしてピアニストがよりソフトに弾こうとすると、曲に必要なエネルギーが失われてしまう。[……]ピアノのためというよりむしろヴァイオリンのために書かれたと言えるのは[……]緩徐楽章だけである(ナタン・ミルスタイン&ソロモン・ヴォルコフ(青村茂&上田京・訳)『ロシアから西欧へ ミルスタイン回想録』、春秋社、2000年、80頁)
ミルシテインはフランクのソナタが悪い曲だなどとは言っていない。ただ、彼の見るところ、そこでの主役はどちらかっといえばピアノだというわけだ(なお、この曲の正式名称は「ピアノとヴァイオリンのためのソナタ」である)。
昔、はじめて上の一節を読んだとき、このソナタに対して抱いていた「もやもや」――「なるほど名曲ではあるが、どこかバランスが悪いなあ」という感じ――の理由がわかった(そして、なかなかよい演奏に出会えない理由も)。が、そのことでこの名曲への愛が失われたわけではない。
ちなみに、上記の回想録は無類に面白い本であり、ヴァイオリン音楽ファンのみならず、音楽の演奏というものについて考える上でもいろいろな材料を提供してくれる。未読の方には一読をお勧めしたい(残念ながらもはや品切れだが、図書館で探せば見つかるだろう)。
2025年3月1日土曜日
「名曲」の塩漬け
いくらおいしい食べ物であっても、あまりに頻繁に口にしていれば、飽きて嫌にもなるというもの。「名曲」もまた然り。それゆえ、そのような場合、私はいかに名曲であっても徹底して遠ざけることにしている。いわば「塩漬け」にするわけだ。そして、長い時間を経てそれを取り出してみると、飽きた「名曲」も自分にとっての鮮度を取り戻しているのだ。
そうした「名曲」のうちで、このところ感動を新たにしているのが、フランクのヴァイオリン・ソナタである。同じ作曲者の作品でも交響曲その他はつかず離れずで楽しんできたのだが、このソナタだけはとことん嫌になった時期があったのだ。が、今、楽譜を引っ張り出してきてピアノで音を拾ったり、あれこれ録音を聴いたりしてみると、改めてそのすばらしさに胸を打たれる。のみならず、以前には感じられなかった美点があれこれ見つかるではないか。まことに喜ばしいことである。
そのフランクのソナタと同じ調性で書かれたフランスのヴァイオリン・ソナタの名曲といえば、フォレの第1番だ。この「名曲」からも私はしばらく遠ざかっているが、こちらはフランクほどには嫌気がさしていなかったものの、久しぶりに触れてみれば感動を新たにすることができるに違いない。そのためにはまず、行方不明の楽譜を見つけ出さなければ……。
2025年2月28日金曜日
imaginary prepared piano
ジョン・ケィジのプリペアード・ピアノ(ピアノの弦の間にいろいろな素材を挟み、音を変えてしまったもの)のための一連の作品はとても魅力的な響きがする(その一例:https://www.youtube.com/watch?v=X990zJyVguc)。が、それを個人が気軽に自分で弾いて楽しむわけにはいかない。というのも、ピアノの弦の間にいろいろなものを挟めば調律が狂ってしまうし、その挟む素材をそろえるのも難儀だから。
が、先日、ふと思いついた。「現実のプリペアード・ピアノを用意するのが無理ならば、せめて想像の中でも」と。つまり、普通のピアノで弾くときに、プリペアード・ピアノが発するであろう音を想像しつつ、あれこれ弾き方を変えてみるということだ。そこで、さっそく手持ちの楽譜《ソナタと間奏曲》(上のリンク先の作品)を取り出してきてやってみると、これがまことに楽しい。なるほど、出てくる音は本物のプリペアード・ピアノとはかなり異なる。が、それでもよいのだ。むしろ、その「隔たり」が想像力と創造力を刺激し、普通のピアノ曲を弾くときとは一味も二味も違う喜びをもたらしてくれる。というわけで、ケィジのプリペアード・ピアノ作品を愛好する方に、是非ともこの「想像上のプリペアード・ピアノ」演奏をお勧めしたい。
2025年2月27日木曜日
アルド・クレメンティの生誕100年
今年生誕100年のイタリアの作曲家といえば、ルチアーノ・ベリオの名が真っ先にあげられるだろう。が、アルド・クレメンティの名も逸したくはない。それほど彼の作品を多く知るわけではないが、それらは心に安らぎをもたらしてくれる(その一例:https://www.youtube.com/watch?v=potEZaoRdWk&list=PL85v3ho5sSTaEeS1T8G1NbgubPMmtGzVA)。
気になって調べてみたところ、1930生まれの2人の作曲家が奇しくもやはり同じ2021年に亡くなっていたことを知った。1人はイタリアのパオロ・カスタルディであり、もう1人はスペインのルイス・デ・パブロである。いずれも私にとってはまことに興味深い作曲家だが、彼らの作品を実演で聴ける機会など今後まずあるまい。ともあれ、これでますます「現代音楽」が歴史の一齣になってしまった。
ところで、私がこうして「あの人はまだ存命かな?」と気になる作曲家は、概ね1940年代生まれの人までである。1950年代以降の作曲家はそれに比べてまだ若いということもあるが、そもそも、この世代以降の作曲家の作品を聴いてよいと感じたことがあまりないのだ(もちろん、中には自分が好ましく感じている人は何人かいるし、探せばこれからも見つかるだろう。そして、見つかればいいなあとは思っている)。私が「現代音楽」を聴き始めた1980年代はじめ、1950年代生まれの作曲家は「若手」だったが、彼らの作品はその前の世代の作曲家の音楽と何かが違うように感じられたものである。そして、その感じは以後も失われることはなかった。まして、その下の世代については……。その「違い」が何なのかはこれまでにもいろいろ考えてきたが、まだわからない。それゆえ、これからも考え続けていくつもりだ。
2025年2月26日水曜日
AIで書いた小説?
AIで書いた小説についての記事を娘が教えてくれた(https://note.com/aono_keishi/n/n7686ce6570bf)。その「小説」は「星新一賞」の最終選考に残ったとのことで、興味から一読してみた。私にとってはつまらない話だったが、これを面白く読む人もいるのかもしれない(さもなくば、最終選考にまで残らないだろう)。
ところで、この記事の筆者はこう言う。「今までは文章力や表現力がないことで小説執筆を断念していた人も、これからはアイデアさえあれば小説を書ける時代になります」と。なるほど、「作品」を生み出すという意味ではそうなのかもしれない。が、「文章力や表現力」と「アイデア」を切り離し(そもそも、それはどこまで可能なのだろう?)、前者を機械任せにすることが、果たして「小説を書く」ことだと言えるのだろうか? 「何を」だけではなく、「いかに」ということが小説を書く上での難しさであるとともに面白さであるはずだが、それを機械任せにしてしまうとすれば、わざわざ「小説家」と名乗る人がやることではあるまい。
もっとも、小説の「売り手」にしてみれば、それが機械の手になるものだったとしても、一定の品質を持ち、読者を得られるのならば問題はなかろう。上記リンク先の小説を読む限りではAIは未だその水準にはないように思われるが、やがて読むに値する小説を生み出せるようになるだろう。すると、ほぼ全面的にAIを駆使して「小説」を生み出す「売文業者」(私はこの語を否定的な意味にではなく、「小説家」と区別するために用いている)がどんどん出てくるかもしれない。が、私はそんな「小説」など読みたくはない。また、人でなければ書けないものがあると信じたいし、小説家にはAIに負けないだけのよりいっそうの創意工夫を期待している。
2025年2月25日火曜日
ピアノ初級・中級者向けの教材のアイディア
ピアノ初級・中級者向けの教材として、外国語の歌いやすい歌曲の編曲による曲集をつくればよいと思う。もちろん、安易な編曲ではなく、音楽としてきちんとしたものでありながら、決して難しすぎないものが望ましい。
その曲集を用いた練習は次のように進められる:①学習者はピアノの練習に先立って、当該歌曲を原語で歌えるようにする(曲集所収の「発音の手引き」――カタカナではなく発音記号を用いて、発音の基本原則をわかりやすく説明したもの――に従い、容易に入手できる推奨音源(つまり、名歌手の歌唱の録音)の真似を徹底的に行う)。②それができるようになってからはじめてその編曲をピアノで練習する。その際、やはりお手本の音源の歌唱法をピアノでできる限り再現するよう努める――以上である。ここで大切なのは①の段階だ。これをきちんと踏まえてこそ②が意味を持つだろう。
音楽の根源にあるのは「歌」であり、歌の根源にあるのは言語である。それゆえ、そこに遡って音楽をつくりあげる習慣を早いうちに身につけることは、ともすると「歌」や「言語」とは無縁なままにどんどん進んでいってしまうピアノ学習者にとっては有益なはずだ。
2025年2月24日月曜日
メモ(141)
たとえばリストの超絶技巧ピアノ曲でピアニストがミスをすれば、聴き手にはすぐにわかる。が、ある種の現代音楽の超絶技巧曲はそうではない。作曲者自身でさえ本当に演奏のミスがわかるのかどうか怪しまれる複雑怪奇な楽譜ものも少なくない。「こんなものを演奏家に押しつけておいて、いい気なものだなあ」と、昨日、NHK-FMの「現代の音楽」でファーニホウ作品を聴きながら思った。
が、それはそれとして、現代音楽の超絶技巧作品の中には聴いていて「鳴り響き」を楽しめるものがあるのも確か。とはいえ、そのような効果を上げるのに、もっと演奏しやすいように書く工夫の余地はいろいろあるのではないか? そして、この視点から(も)20世紀の現代音楽の書法を批判的に検討してみれば、現在の作曲家は何かし得るところがあるのではなかろうか。
2025年2月23日日曜日
メモ(140)
ある1つの「語り方」が強い力を持っている中にあって、自分の言葉で語るのは難しい。のみならず、その流行に自分の思考が絡め取られてしまい、自分で考え、語っているつもりのことが実はそうではなくなってしまっているということも十分ありうる(もちろん、この場合、「自分」ということが何を意味するのかということ、そして、確固たる「自分」なるものがありうるのということは慎重に考えられてしかるべきだが)。
第2次大戦後、芸術音楽の世界で「前衛」が隆盛を極めたとき、第一線で活躍する作曲家の中でそれに抗って創作をしている者はほとんどいなかった(精確に言えば、そうした者はいくらよい作品がつくれても第一線に立つことを認められなかった)。「前衛にあらずんば現代の作曲家にあらず」というわけだ。だが、そんな時代が終わってみると、かつての「話題作」の少なからぬものが作曲家個人の言葉で語られたものなどではなく、流行の言葉を器用に用いただけのものであることが見えてくる。
たぶん、当時の作品の中から本当の「名作」を選び出すのはこれからの演奏家であり、聴き手なのだろう(ただし、当時の作品への関心が今後も失われないとすれば、の話だが)。もっとも、その際、もはや「個性」とか「独創性」とかいう点は評価の最重要項目ではなくなるかもしれない。
2025年2月22日土曜日
ラジオでマーラーの交響曲を聴く
今週のNHK-FM夜のクラシック音楽番組ではマーラーの交響曲を取り上げていた。この時間帯は夕食時間にかかっているので、いつも途中から聴くこととなっていたが、それでも興味があって、私にしては珍しくも毎晩ラジオに向かっていた。
とはいえ、残念ながら、深い感動を得られるような演奏には出会えなかった(もし、そうした演奏があれば、「聴き逃し配信」を利用してはじめから聴き直すつもりだったが……)。ライヴ録音なので、聴衆の「ブラヴォー」の声も放送には含まれていたが、その感動を共有できない疎外感を毎日味わうこととなった。
だが、それは結局、演奏が悪いというよりも、ラジオをいう媒体(しかも、ヘッドフォンを用いて聴いたこと)がよくなかったのであろう。もし、私も同じ演奏会場にいたとすれば、マーラーの交響曲の圧倒的な量感に何かしら感動を覚えたに違いない。
ちなみに、私が生で聴いたことのないマーラーの交響曲はといえば、第2、第4,第7である。あとはいちおう実演に触れることができたが、演奏の良し悪しはあれこれありはしたものの、いずれも「ああ、これが聴けてよかったなあ」と思えた。それゆえ、今後、生で未聴の交響曲も是非とも聴いてみたいし、既聴のものについてもいっそう感動的な演奏に出会いたいと思っている。
なお、放送初日の月曜は第1が取り上げられていたが、聴きながら「なんだか随分軽い感じの演奏だなあ」と思っていたところ、果たしてフランスのオケによる演奏だった。なるほど、違和感を覚えたのも道理である。が、これはこれで面白かった。さて、日本のオケのマーラー演奏は諸外国の聴き手にはどのようなものに聞こえているのだろう? 自分たちの流儀とは違った面白さを何かしら見つけてくれているとよいなあ、と思う。
2025年2月21日金曜日
楽譜の誤記の判断
楽譜を読んでいると、しばしば、同じフレーズやパッセージの反復や再現と覚しき箇所で、音やアーティキュレーションなどが異なっている場合が見つかる。その中にはたんなる誤記や省略もあれば、作曲者が意図的に違ったふうに書いているものもある。そして、その判断はなかなかに難しい。
昨日話題にしたラヴェルの《鏡》第1曲の場合、森安は件の箇所について、直前数小節が、その前に出てきた同様なパッセージを「そっくり完全5度下に移調したものであること」(森安版『ラヴェル全集1』、(16頁))を理由に、既存の版に書かれている音について、「可能性は皆無といってよい」(同)と断じている。なるほど、この説明は論理的であり、これが正しい可能性は十分にある。
が、それはあくまでも「可能性」に留まる。というのも、このような場合に作曲者が敢えて異なる音を書く可能性も完全には否定できないからだ。ただ、その判断は作曲家の性格によって違ってくる。たとえば、シューマンの(少なくとも)初期ピアノ作品群であれば、このような場合に「異なる」音が楽譜に書かれていたとすれば、それは誤記だと考えてまず間違いない。というのも、彼は同じフレーズやパッセージの反復や再現に際して律儀なほどに「同じ」ことを書いているからだ(そのために音楽がくどくなりすぎている場合も少なくない)。他方、ショパンはといえば、シューマンとは対照的に何かしら違ったことをしている場合が少なくないので、すぐには「誤記」だと断定はできない。では、ラヴェルの場合はどうなのだろう? それは彼の他の作品にも細かく目を通し、このような場合に彼がどう対処しているのか――すなわち、彼の「様式」――を把握した上で「推論」するしかない。
こうした「推論」は楽譜の校訂者のみならず、楽譜の「読み手」にも要求されよう。なんとなれば、完全な楽譜などというものは存在しえないからだ。そして、そもそも楽譜から(頭の中に思い浮かべるものも含めて)現実の音を立ち上げる際に各自が楽譜に数多ある「空所」を埋めていくしかないからだ。それが本当の意味で「楽譜を読む」ということであろう。
2025年2月20日木曜日
森安版ラヴェル・ピアノ曲集に圧倒される
今年はラヴェル・イヤー(生誕150年。「それだけしか経っていないのか!」とつい思ってしまうほど、私の中で彼は「古典」の作曲家に位置づけられている)。それゆえ、作品をあれこれ楽しく見(聴き)直している。
先日、春秋社から出ている森安芳樹校訂のピアノ曲集を久しぶりに見てみたが、やはり凄い。まことに緻密な「校訂報告」には初版の比較検討結果のみならず、独自の見解もいろいろと述べられており、編者の透徹した楽譜の「読み」にはただただ圧倒される。また、「演奏ノート」も作品を読み解く上で大いに参考になる。
中には種々の資料にはないにもかかわらず、作品の前後関係から採用されている音もある。たとえば、《鏡》第1曲第120小節冒頭和音の最上音がそうなのだが、それは1つの解釈として十分説得力を持っている(ただし、この場会、従来の諸版に記されている音が正しいものである可能性も十分あるので、変更は1つの案として脚註で示した方がよかったかもしれない)。
その後、ラヴェルの原典版楽譜はいろいろ出版されているが、森安版はそれらに引けを取らないものであり、価格と入手のしやすさという点では勝っている(第2巻は今品切れだが、じきに新装版が出ることだろう)。同じ国内版では全音版も悪くはないが、楽譜の見やすさも含む総合点で私ならば森安版を採りたい。
森安氏が編集した楽譜には他にもアルベニスやシマノフスキなどがあり、いずれもすばらしい。氏は(今日の平均余命からすれば)若くして亡くなっているが、もっと長生きして他にもいろいろと楽譜の校訂をしていただきたかったものである。
同じ春秋社の楽譜でも、この森安版に比べて些か残念なのが、別の編者の手になるスクリャービンの楽譜だ。「ピアノ曲全集」という企画自体はすばらしく、有用性という面でも(わたし含めて)恩恵に与っている人は少なくないはずだ。それだけに少なくない楽譜の誤記は是非とも改めてもらいたいものだし、今となっては内容面で古くなった解説もアップデートすればよいと思う(と、全7巻を購った1ユーザーとして言いたい)。幸い、編者の1人はまだ存命なのだから、これは実現可能なはずだ。そして、そうであってこそ、「スクリャービン(ピアノ曲)全集」というこのすばらしい企画の意義は高まり、これからも多くの利用者を得続けるに違いない。
2025年2月19日水曜日
間宮芳生氏も亡くなっていた
昨日、「シャシャブとグイミ」について調べている中で作曲家の間宮芳生氏(1929年生まれ)が昨年末に亡くなってなっていたことを知る(https://www.asahi.com/articles/ASSDD1T7BSDDUCVL041M.html)。
氏の作品に興味がなかったわけではないが、結果として他のものを優先してしまい、あまり知らないままでいた。が、自分が知る数少ない作品について言えば、とても好ましく感じている(たとえば次のものなど:https://www.youtube.com/watch?v=WIKxiRt4ZnM)。氏はピアノ演奏を達者にこなす人だったようで、ピアノ曲も少なくない。それについてはいずれきちんと目を通してみたい。また、ライフワークの1つだった「合唱のためのコンポジション」シリーズにもとても興味がある。
ともあれ、これで昭和一桁生まれの有名作曲家(すなわち、戦後日本作曲家の隆盛をもたらした人たち)のほとんどが鬼籍に入ったことになるのだろう(ちなみに、昭和9年生まれの人は存命ならば今年で91歳になる)。まさに1つの時代の終わりの現れだと言えようか。
2025年2月18日火曜日
小学校の音楽の授業で私の心をとらえた3曲
私の小学生時代、学校の音楽の授業で強く印象に残ったのは3曲。すなわち、ベートーヴェンのロマンス・ヘ長調、「シャシャブとグイミ」、そして、「牧人の踊り」と題された曲である(後の2曲についてはこれまでにも話題にしたことがあったかもしれない)。
最初のものについては解説を要しまい。ただ、そのどこに惹きつけられたかといえば、第2-3小節のベースの進行だ(https://www.youtube.com/watch?v=P1Ll1zvfg8E)。とりわけ第3小節で主旋律に対するベースのA→Eという進行にぐっと来たのである。もちろん、当時はその理屈はわからなかったが、その進行は子どもの耳をまさに「理屈抜き」にとらえたのだった。
次の「シャシャブとグイミ」はとにかく妙な曲だなと思ったし、歌詞の意味もピンとこなかった。そもそも「シャシャブ」と「グイミ」が何かについて教師の説明もなかった。自分で歌った記憶もないから、たぶん、鑑賞ということで聞かされたのだろう。だとするとそれは1回きりのことだったわけだが、それでも強烈に私の脳裏に刻み込まれたのである。その後、随分後になって調べたところ、これが高知のわらべうただとわかった(ちゃんとした音源がないのが残念:https://www.youtube.com/watch?v=KTxpabjtQ7c)。が、その編曲は何人かの作曲家が手がけており、自分が聴いたのが誰の編曲かはまだ不明。ピアノ伴奏がついていたことは覚えているのだが……(なお、この「シャシャブとグイミ」という曲の持つインパクトの大きさは、次のようなものがつくられていることからもわかる。いや、これは面白い:https://www.youtube.com/watch?v=crQVhX5Zp_M)
最後の「牧人の踊り」も当時の私には摩訶不思議な音楽だったが、それだけに後々まで覚えていたのだ(これについても、教師のきちんとした説明はなかった)。そして、後年、その旋律に思わぬところで再会する。それはバルトークのピアノ曲集《子どものために》だ(面白い音源があったので、それを:https://www.youtube.com/watch?v=8nVAYbbbc04)。
これら3曲以外にも授業中にいろいろな音楽に触れ、それなりに楽しんだり感動したりしていたはずだが、忘れがたいものとしてあげられるのはその3曲のみ。これは「少なすぎる!」と見るべきか、それとも、「3曲もあれば御の字だ」と言うべきか……(言うまでもないが、学校の外ではもっと数多くの音楽が私の心をとらえていた)。
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