2025年12月31日水曜日

2025年大晦日のあれこれ

  2025年も今日で終わり。振り返ってみれば、今年は(今年も?)「惑いの年」だった。来年はそこから脱出しなければなるまい。そのためにはいろいろ模索中の2つの課題をきちんとこなす必要がある。

 

今年いろいろ聴いた音楽の中でとりわけ深い感銘を受けたのは、アンジェイ・パヌフニク、ルベルド・ジェラルト、アルバン・ベルクとダリウス・ミヨーの作品だ。これまでも彼らの作品を聴き続けてきてはいたが、「こんな凄い音楽だったのか!」と遅ればせながら気づいた次第。というわけで、それらの作曲家と作品についてもっと深く知りたいと思っている。

 

前回話題にしたリヒャルト・シュトラウスだが、今頃彼の音楽をいっそう面白く感じだしたのは、このところ聴いている演奏のおかげであろうか。それはルドルフ・ケンペ(1916-76。来年は没後50年)指揮の演奏で、実に魅力的なのだ。彼の手にかかると音楽が実に劇的に鳴り響くのだが、それが決してつくりものめいておらず、そこに聴き手を自然に引き込んでくれる。

 

家族が「紅白歌合戦」を観ており、私も時折覗きにいっているのだが、「昭和歌謡」のスターたちの技芸に圧倒される。岩崎宏美、矢沢永吉、郷ひろみといった人たちはもはやかなりの年齢にもかかわらず、今でも現役の歌手たちであり、実に見事なパフォーマンスを聴かせ、見(魅)せてくれるのだ。いや、凄いものである(もちろん、若い歌手たちの中にもなかなか面白そうな人がおり、楽しませてもらっているが、自分の感覚にしっくりくるのは昭和歌謡の方である。まあ、私も昭和世代の者なので仕方がないか……)

2025年12月27日土曜日

メモ(151)

  実在論と観念論のいずれが正しいかは原理的に決めようがない。となれば、どちらを採るかは、結局のところ、その人の「生き方」の――すなわち、いずれに拠る方が自分にとっての生の現実にしっくりくるものであり、生きてゆきやすいのかという――問題ではなかろうか。

 

 ここ数日、リヒャルト・シュトラウスの管弦楽曲を楽しんでいる。昨日は《ドン・キホーテ》、今日は《アルプス交響曲》 を聴いたが、そうした作品での見事な職人芸には胸を打たれずにはいられない。

2025年12月24日水曜日

ミヨーのブラームス嫌い

  以前ダリウス・ミヨーの交響曲のことを話題にしたが、その後、ますます彼の作品に魅せられている。とりわけ響きの美しさと神秘的なところが私の胸を打つ。今聴いているのは交響曲と弦楽四重奏曲の全曲だが、しばしば「いったい、そこはどんなふうに書かれているのだろうか?」と気になる箇所に出くわす。大学の図書館でいくつかのスコアは借りられたのだが、そうではない曲もいろいろあるのが困りもの。まあ、「求めよ さらば与えられん」ということで気長にその機会を待つことにしよう。 

そのミヨーのヴァーグナー嫌いは有名だが、ブラームスもそれに劣らず嫌っているとは最近まで知らなかった。対話録『音楽家の肖像』(別宮貞雄・訳、音楽之友社、1957年)の中で彼がブラームスのことをこう言っているのには驚いた――「そこ[ブラームスの音楽]に贋の偉大さがのさばり返り、贋の感受性が涙を流しているのを感じ、その展開部における長たらしい駄弁には死ぬ程悩まされるのです」(同書、65頁)。いやはや、何とも激しい嫌いぶりである。ブラームス愛好者の私としては些か受け入れがたい文言だが、当人がそう感じているというのだから仕方がない。そして、このことでミヨーの音楽を私が嫌うようになることもない。

2025年12月21日日曜日

高橋悠治の《オルフィカ》、新旧の録音

   高橋悠治の名曲《オルフィカ》1969)の新録音を聴く。これは以前にこのブログで話題にした(が、聴くことの叶わなかった)演奏会のライヴ録音である(私はCDを購ったが、You-Tubeでも聴けることを今日知った:https://www.youtube.com/watch?v=lW0UouPeaY0&list=RDlW0UouPeaY0&start_radio=1)。しかるべき水準の優れた演奏だと思う。

もっとも、それはそれとして、つい自分がなじんだ古い録音と比べてしまう(https://www.youtube.com/watch?v=dtWiio-8jMA&list=RDdtWiio-8jMA&start_radio=1)。すると、やはり両者の違いに驚かないわけにはいかない。もちろん、これはどちらがよいとか悪いとかいった問題ではない。どちらもそれぞれに聴かせる演奏であるからだ。それはやはり「時代」の違いだとしか言いようがない。すなわち、こうした作品が生まれた時代と、そうした時代が過去のもんとなってしまった現在との違いである(なお、私個人の好みではあるが、古い録音の方にいっそうの説得力を感じる)。

その間、およそ半世紀。それだけの時間で演奏がこうも変わってしまう。となると、今日演奏されているクラシック音楽作品の演奏など、作品誕生時とどれほど多くの違いを生み出していることか。とはいえ、だからこそ、すなわち、時代の移り変わりの中でその都度何かしら適したかたちを採ることができるからこそ、往時の作品は生き続けられるのだろう。 

この《オルフィカ》を収めたCDには他にも新旧の作品が収められており、どれもそれぞれに面白い。ともあれ、同じメーカーから出ている作品集の第1弾と合わせて、高橋の「前衛音楽」作曲家時代のかなりの作品を聴くことができる。これで自分の少年時代以来の好奇心を満たす――つまり、名のみ知ってはいても実際の音を知らなかった作品を聴く――ことができてうれしい。

2025年12月14日日曜日

残念

   ヴァレンティン・シルヴェストロフ(1937-)の《Post scriptum》(1990)(https://www.youtube.com/watch?v=92KkpN-o-TI&list=RD92KkpN-o-TI&start_radio=1)を初めて聴いたとき、「これはすばらしい」と思った。そして、今でもそれは変わらない。一歩誤れば甘美なムード音楽になりかねないぎりぎりのところで踏みとどまり、何か切実なものを必死に伝えようとしているこの作品には感動を覚えずにはいられない。

が、そんな作品を産み出した作曲家のその後には些か唖然とさせられる。たとえば、次のものなどどうだろう:https://www.youtube.com/watch?v=bhvh0oNE0Ws&list=RDbhvh0oNE0Ws&start_radio=1。そこにはかつての緊張はなく、あるのは甘さのみ。しかも、楽譜の指示は異様に細かく、弾き手を縛り付けること夥しい(この点は上述のPost scriptum》も同じではあるが、作品の質が違いすぎる)。これでは20世紀前衛音楽の譜面と本質的に同じではないか。もし、これがもっと普通に記譜されていたのならば、「まあ、こんな音楽があっても悪くはないかなあ」と思うところだが、これではどうしようもない。では、別の作品ではどうだろうか:https://www.youtube.com/watch?v=HbW-U0krHk0&list=RDHbW-U0krHk0&start_radio=1。私にはこれも大差ないようにしか見えない(し、聞こえない)。

 少し前にたまたま大学図書館で最初にリンク先をあげた作品の楽譜が目に留まったので、それを機会にシルヴェストロフの作品を見(聴き)なおしてみたのだが、かように残念な結果に終わった(もちろん、こうした彼の音楽を好む人はいるだろうし、それはそれでけっこうなことだとは思う)。

2025年12月13日土曜日

つかの間の時間旅行

 昔々の楽器は、往時の音楽のありようを垣間見させてくれるタイムマシンのようなものだと言えようか。

今日は19世紀半ばや20世紀初頭のピアノに触れる機会を得て、つかの間の時間旅行を楽しむことができた(この手の楽器に触れるのは随分久しぶりのことである)。

もし、ピアノが現在のようなものにはならず、当時のままだったとすれば、音楽のありようも随分違ったものになっていただろうか?――これは無益な問いかもしれないが、ついそのようなSF的妄想がふと浮かぶほどに、往時のピアノはやはり魅力的だった(もちろん、現在のピアノにもそれとは違った魅力があるが)。

この貴重な機会を与えてくださったのが「アトリエ ピアノピア」(https://www.atelier-pianopia.com/) の小川瞳さんとNekota Hinazo-さんである(どうもありがとうございました)。この方たちの仕事ぶりを拝見すると、楽器の技術者には確かな職人芸と知識に加えてある種の想像力と創造力が必要なことがよくわかる。

2025年12月11日木曜日

モーツァルトのピアノ・ソナタで気になっていた箇所

  モーツァルトのピアノ・ソナタ第17番変ロ長調K570の第1楽章で昔からずっと気になっていた箇所がある。というのも、楽譜によって音が異なるからだ。

まず、次にあげる音源の3’03”頃の部分、動画中の楽譜でいえば2段目の第4小節、右手第3拍目からのB-A-Gという動き(以下、「①」と呼ぶ)に注目されたい(https://www.youtube.com/watch?v=6wiQE4LS9No&list=RD6wiQE4LS9No&start_radio=1)。まあ、ごく自然な順次進行であり、他声部とも協和している。『新モーツァルト全集』を含む多くの版ではこのように記されており、私が少年時代にこの曲を練習した楽譜も同様だった。

 ところが、これとは異なる音が記された版もある。日本でも広く用いられている「ウィーン原典版」、あるいはアルフレート・カゼッラが編集したRicordi版がそうなのだが、そこでは件の①中のBAとなっている、つまり、同音連打を含むA-A-Gという動き(以下、「」と呼ぶ)になっているのだ。今日、そのように弾いているものを探したところ、内田光子の演奏がそうだった(https://www.youtube.com/watch?v=-335tMRWRwM&list=RD-335tMRWRwM&start_radio=12’39”あたりを聴かれたい)。以前、この件を楽譜ではじめて見たとき、正直なところ驚いた。どこか不自然に感じられたからだ。そして、その感じはごく最近まで残り続けていたのである。

 ところが、あるとき、②の意味がわかったような気がした。つまり、これは続く小節にあるB- B-Aという動きに対応するものであり、いわば「こだま」のような面白い効果をもたらしているのだ、と(そのことは先にあげた内田の演奏を聴けばいくらかおわかりいただけよう「いくらか」というのは、この「こだま」をもう少しはっきりさせた方がよいと思われるからだ)。

 ちなみに、①は初版譜、②は欠落部分のある自筆譜に由来するものである(先にあげた箇所は実はその「欠落部分」に含まれるのだが、それに対応する再現部に箇所は自筆譜があるので、それに基づいて復元されている)。が、そのどちらか一方が正しくて他方が誤っているとする決め手はないようなので、演奏者が自分で選択するしかあるまい。そして、以前の自分なら迷っただろうが、今は躊躇することなく②を採りたい(が、だからといって①による演奏を拒みたくはない)。

2025年12月6日土曜日

兵(つわもの)どもが夢の跡

  川崎弘二『NHKの電子音楽』を読了。とにかくすばらしい本だった。大長編であり図書館の返却期限もあるので今回はざっと目を通すに留まったが、いずれきちんと再読したい(そのためには改めて図書館から借りてこなければならないが……)。

 それはそれとして、同書で描かれた「一九二五年の放送開始から約七十五年にわたって、放送局を舞台に実践されてきた『電子音楽』というメディア・パフォーマンス」(同書、1282頁)の栄枯盛衰の物語を読み終えてすぐに想起されたのが「兵(つわもの)どもが夢の跡」という名句中の文言だ。それとともに、1980年代に「NHKの電子音楽」をリアルタイムで聴き、過去のいろいろな作品にも触れた者として、さまざまな想いが胸に去来する。

2025年12月2日火曜日

備忘録

  先日1130日に、とても面白い体験をした。大阪の国立国際美術館で催されたワークショップでのことである(参加者は事前申込者の中から抽選で選ばれたのだが、私は運良くその中に入ることができた)。それは「現代美術の香りをかぐ」と題されたもので、事前に告知された案内は次のとおり(https://www.nmao.go.jp/events/event/miruplus_20251130/):

 

「見る」だけでなく、身体のさまざまな感覚を使って現代美術を楽しむプログラム「みる+(プラス)」。今回は、香りのワークショップを展開する岩﨑陽子氏と松本泰章氏を招き、「嗅覚」に焦点を当てて開催します。プログラムでは、開催中の「コレクション2」の展示作品を鑑賞し、その体験からイメージしたことがらを、香りで表現します。作品の印象やイメージした香りについておしゃべりをしながら日曜午後のひと時をお楽しみください。

 

これを見て、「なかなか面白そうだな」と期待していたのだが、それを遙かに超える面白さだった。

 具体的な内容と感想を以下に述べるべきなのだが、今はあれこれ忙しくてその心の余裕がない。が、この件についてはいずれ機会を改め、あれこれ考えたことを加味して書いてみたい(今回は「備忘録」として、このようなものがあったということだけを記した)。

2025年11月29日土曜日

愛犬セラフィンの絵

   数日前に59歳の誕生日を迎えた。ということは、来年には60、還暦である。ああ恐ろしや。まあ、人には常に「今」しかないのだから、年齢など気にせず「今を生きる」ことが大切ではあるが。

さて、今年は娘からとてもうれしい贈り物をもらった。それは今は亡き愛犬セラフィン(2002-14。通称「ふいちゃん」 )を描いたものだ。近年、娘は趣味で絵画教室に通っており、そこで描いた水彩画の1つがこれである。これを見ると在りし日の愛犬のことがまざまざと思い出される。

娘に深く感謝。この絵を眺めていたら、ぴったりの音楽が見つかった。それはエドゥアール・シラス(1827-1909) の《無言歌》第1集の第1曲。だが、残念ながらその音源はない(昔々、金澤攝さんがカセットテープ用に録音してはいるのだが……)ので、「次点」の曲として、同じ作曲家の《マルヴィーナ》をあげておこう(https://www.youtube.com/watch?v=cgP0PJ749ww)。

 

 誕生日といえば、私が生まれた年月日と全く同じ日に完成したのが野田暉行(1940-2022)の交響曲第1番だ。そこで、今年もこの曲を誕生日に聴き返してみた。CDで出ている演奏が私はあまり好きではなかったのだが、幸いにももっとよい演奏、すなわち、初演時の録音をインターネットで聴くことができる(https://www.youtube.com/watch?v=XLxci2HFo7Y&list=OLAK5uy_kX4Li_EvvGtv2lxii862f1R_b1QpfgOpo)。こちらはよい演奏であり、作品の魅力が十分に伝わってくる。

 


2025年11月27日木曜日

やはりすごい本だった

  川崎弘二『NHKの電子音楽』(フィルムアート社、2025年:https://www.filmart.co.jp/pickup/33386/)を大学図書館から借りてきて読み進めているが、何ともすごい本である。書名には「NHKの」とあるが、周辺情報もたっぷり収められているので、『日本の電子音楽史』としてもよいほどのものだ。

とにかく、「よくもまあ、こんなことまで調べてあるなあ」と驚かされることの連続である。作品制作に関わる事柄はもちろんのこと、その作品が発表当時にどう受け取られたかについても実にこと細かに述べられているのだ。たとえば、諸井誠と黛敏郎の共作《7のヴァリエーション》をめぐる諸井と別宮貞雄などとの論争については、両者の言い分をきちんと押さえ、著者自身の冷静な考察がなされている。のみならず、諸井と別宮の師である池内友次郎が2人を呼び出して「あなたたち、今すぐここで死になさい!」(前掲書、430頁)と説教したことまで調べており、それに対しても「師である池内はそのような論争が不毛であることを諭したかったのかもしれない」(同)とコメントをしているのだ。万事がこの調子であり、緻密な調査と冷静な考察、そして、随所ににじみ出ている「電子音楽への愛」に私は一読者として深い感銘を受けずにはいられない(同書があまりに高価なので購えないのが残念だが、それでもこのような名著が読めるのは本当にありがたいことである)。とともに、同書で描かれている「現代音楽」が活気を持ち得た時代に些かの羨望の念を抱いてしまう。

2025年11月24日月曜日

別宮貞雄の名著『音楽の不思議』

  私は別宮貞雄(1922-2012)を「作曲家」としてよりもむしろ「文筆家」として高く評価している。作曲家としてもそれなりの存在だとは思うが、それ以上に私が深い感銘を受けるのは彼の著作からだからだ。

 音楽之友社からは3冊の著作が上梓されていたが、中でも『音楽の不思議』に収められた音楽論はいまだ何ら輝きを失っていない。そこでは音楽というもののありようについて(当然、すべてではないにしても)まことに明快かつ平易に説かれている(私はそのすべてを受け入れているわけではないが、多くの部分に納得している)。それゆえ、音楽愛好家はもちろん、音楽を専門に学ぶ若者にも強く一読をお勧めしたい。

 そこで、現在それらの出版状況を調べてみたところ、音楽之友社のものはすべて版が途絶えている。残念なことだ。親族の手で3巻の著作集が編まれており、そこには音楽之友社刊のうち2点が収められているのだが、何としたことか『音楽の不思議』が抜けているではないか。これは残念。というわけで、同書に興味をお持ちの方は古書店か図書館でどうぞ(なお、『著作集』にしたところで、現在品切れだという。その第3巻は単行本未収録の文章を集めたものだというから読是非ともんでみたいものだが)。

2025年11月18日火曜日

あれこれ

  今朝、ラジオをつけるとドヴォジャークの「新世界」交響曲が流れてきた。こうした「名曲」の場合、しばらく聴いてみてよさや面白さが感じられれば聴き続けるし、そうでなければすぐにスイッチを切ることにしている。今回は幸い前者だった。

「新世界」のような超有名作品でこうなるにはなかなかにハードルが高いのだが、今朝のものはすばらしい演奏だったのである。それはイシュトヴァン・ケルテス(1929-73)指揮、ヴィーン・フィルの演奏。それを聴きながら、「ああ、何とよい音楽だろう」と改めて感じ入った。演奏・作品ともにである。

 

小澤征爾の評伝、中丸美繪『タクトは踊る――風雲児・小澤征爾の生涯』(文藝春秋、2025年)(https://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784163919485)をご近所図書館で借りて読んだ。小澤について書かれたもので「なるほど」と思ったのは同書がはじめてかもしれない。

 

このところ、楽譜書きソフトDroricoと格闘している。これまで使っていたのはFinaleの下位ヴァージョン(廉価版)たるPrint Musicだが、Finaleがフィナーレを迎えたので、どうしたものかと思案していた。すると、Doricoが比較的安価で乗り換えられることを知り、思い切って購入してみたのである。操作の仕方が全く異なるので、はじめは五里霧中だったが、次第に慣れつつあるところだ。そして、Print Musicよりも使い勝手がよいと感じている(もっとも、私が使っていたのは2014年版なので、両者を比較するのは酷かもしれないが……)。

2025年11月12日水曜日

ブーレーズへのオマージュ

  先週土曜に「ブーレーズへのオマージュ」(於:京都コンサートホール)を聴いてきたが、とても充実した演奏会だった(詳細は次を参照:https://www.kyotoconcerthall.org/boulez2025/)。

 演目は次の通り:

 

ブーレーズ:12のノタシオン、ドメーヌ、フルートとピアノのためのソナチネ

ラヴェル:夜のガスパール

シェーンベルク(ウェーベルン編):室内交響曲 1

 

前半がブゥレーズ作品、後半が彼に影響を与え、かつ、好んで指揮した作曲家の作品で、作曲家ブゥレーズの核となるものがわかる、とてもよい選曲である。

 演奏もすばらしかった。その中心となったのがピアニストの永野英樹。独奏やデュオでも何とも鮮烈な音楽を聴かせてくれたが、とりわけ深い感銘を受けたのがシェーンベルク作品での演奏だ。これは元々15人奏者のための作品をピアノ五重奏に編曲したものなのだが、その中でピアノが担う役割の大きさと重さは半端ではなく、それをきっちりこなしつつ、他の奏者を引っ張っていくさまはまさに「聴き物」だった。もっとこの人のピアノを聴いてみたいものである(なお、他の演奏者もそれぞれに見事だった)。

2025年11月7日金曜日

音とお茶とことばの時間

  遅ればせながら今月2日に出かけてきたイヴェントの話題を。それは「音とお茶とことばの時間」(於:オンガージュ・サロン(https://www.engage-salon.com/%E3%82%A4%E3%83%99%E3%83%B3%E3%83%88/))というものだが、これが期待をはるかに超える味わい深い会だった。

 それはたんに「音楽+詩」というものではなく、両者の大きな相乗効果がもっと豊かな場をつくりあげていた。まず別室から聞こえてきたのはドビュッシーのピアノ曲《夢》。生の音だが演奏者は眼前におらず、そのうち、そこに言葉が重なってくる。これまた語り手の姿は見えず、声が上から降ってきたのだ(それらを聴くうちに、私はなぜか少年時代のことが思い起こされて、少しばかりせつない気持ちに……)。

 こんなふうにはじまった会は、その後もいろいろな趣向が凝らされており(先のリンク先にあげられているチラシに「構成」者の名があげられている点に注意されたい)、最後まで楽しく聴く(観る)ことができた。が、それ以上に興味深かったのは、音楽と詩(ピアニストと役者)のスリリングな共演ぶりだ。それはたんに「音楽」と「詩(演技)」を足し算したものなどではなく、それ以上のものが実に多様な姿を示しつつこちらに迫ってくるのだ。そして、それは時には大いなる安らぎを、時には深い感動をもたらしてくれたのである。というわけで、この会の演(奏)者、構成者、企画運営に携わった方々に心からの御礼を。

 

2025年10月28日火曜日

Palette Concert Series〜たおやかなる和の調べ〜

  先週出かけた演奏会の2つめは「Palette Concert Series〜たおやかなる和の調べ〜」(於:原田の森ギャラリー(神戸市)別館401号室:https://www.kobe-bunka.jp/c/music/18786799/)。

これは出演者の1人、青山理紗子さん(私の授業のかつての受講生)からご案内いただいたものなのだが、実に楽しかった。

 演目は次の通り:

 

前半

 武満 徹:小さな空/『他人の顔』より ワルツ ①②

 連 一矢:3つの小品 ②

 湯山 昭:『お菓子の世界』より バウムクーヘン ②

 湯山 昭:歌曲集『カレンダー』 ①②

 

後半

 平井 康三郎:幻想曲『さくらさくら』 ③

 大澤 壽人:富士山 ②

 八村 義夫:ピアノのための即興曲 ②

 伊福部昭:ピアノ組曲 ③

 

演奏者:①野尻 友美(歌)、②青山 理紗子(ピアノ)、③藪内 弥侑(ピアノ)

 

硬軟取り混ぜた、しかも、巧みに配列された選曲であり、楽しいだけではなく、聴き応えも十分で、「ああ、よいものを聴かせたもらったな」としみじみ感じた次第。「邦人作品」を集めた演奏会となると、妙に気張った選曲か、逆に親しみやすそうな作品だけで固められた気の抜けたようなものが目に付くのだが、この演奏会はそうではない。気張ってはいないが十分に気が遣われた、すてきな演奏会だった。

 前半の演目はいわば「おしゃれ系」である。最初の演目「小さな空」はその幕開けとして巧みな選曲である。続く連作品はジャズなどに取材したものであり、湯山作品はフランス近代の流儀によるもの。いずれもとっつきやすいものだが、決してeasyではなく、充実した音の世界を繰り広げていた。

 後半は「和の調べ」ということ強く感じさせる作品が集められており、それぞれに味わいのあるものだった。面白いのは、いかにも日本的な、しかもどちらかといえば穏健な作品の中に1つだけ八村義夫の前衛的な作品が含まれていたことだ。この曲を選んだ青山さんは演奏に先立って、同曲に感じられる「和」の要素を説明していたのだが、それを聞いて「なるほど」と思い、さらに演奏を聴くと「ごもっとも」と納得させられた。そして、この八村作品が続く伊福部作品をいっそう効果的なものにしているように感じられたのである。

 演奏はいずれも自分が選んだ作品への愛に満ちたものであり、聴いていて気持ちがよかった。また、先の八村作品のみならず、他のすべての作品について演奏者による、ありきたりではない、自分の言葉できちんと音楽について述べたトークがあり、それもこの演奏会の重要な構成要素であったと思う。

 ともあれ、いろいろな意味で楽しい演奏会で、とても幸せな気分になれた。演奏者(=企画立案・実行者)の方々に心からの御礼を。

2025年10月26日日曜日

京都市立芸術大学現代音楽研究会club MoCoの第4回定期演奏会

  今やほとんど演奏会に出かけることのなくなった私だが、先週は珍しくも2日連続で。今日話題にするのはその1つめについてである。それは何かといえば、京都市立芸術大学現代音楽研究会club MoCoの第4回定期演奏会だ(https://club-moco-kcua.com/20240825-2)。

今年生誕100年を迎えたピエール・ブゥレーズに因む選曲で、演目は次の通り:

 

イーゴリ・ストラヴィンスキー 《七重奏曲》(1952-1953)

アルバン・ベルク 《室内協奏曲》(1923-1925)

 

ピエール・ブーレーズ 《デリーヴ1 (1984)

フィリップ・マヌリ 《ある自画像のための断章》(1998)

 

選曲のコンセプトなどについては上記リンク先をご覧いただきたいが、まことに充実したプログラムである。

 実は私のお目当てはブゥレーズではなく、このところすっかりハマっているベルク作品。これが実演で聴ける貴重な機会を逃す手はない。そして、演奏はその期待に十分に応えてくれるものだった。独奏ヴァイオリンの豊嶋泰嗣は実に見事だったし、独奏ピアノの二俣菜月も好演だった。そして、共演の管楽アンサンブル、そして全体をまとめる指揮の森脇涼もまた。欲を言えば、もう少し「妖しい」響きがしてもよかったと思うし、「このパートがもう少しよく聞こえればなあ」と感じる箇所もないではなかった。が、彼らの演奏はこの名曲の魅力を十分に味わわせてくれるものだった(ストラヴィンスキーの作品も同様。ただ、それを聴きながら、「もしかしたら、このホールは楽器間の音量バランスを取るのが些か難しいホールなのかもなあ」と感じもした)。

 今回取り上げられたブゥレーズ作品は1984年の作で、私は元々、1970年代以降の彼の作品をさほど好んではいなかった。が、少し前に録音をいろいろと聴き直してみたところ、以前とは感じ方が変わってきたようで、それなりに楽しく聴けるようになっていたので、今回は果たしてどうなることかと期待半分、不安半分。幸い、演奏のよさもあってか、作品の響きの美しさのみならず、音楽のドラマもそれなりに楽しめたのは幸いである。やはりブゥレーズは一流の作曲家だということなのであろう。

 最後のマヌリ作品だが、これは残念ながらあまり楽しめなかった。それには私個人の聴き手としての資質も少なからず関わっていよう。すなわち、私の耳は大音量や刺激的な音が長時間続けられることへの耐性があまりないのだが、今回のマヌリ作品はまさに私の耳の限界を超えるものだったのである(ドームでのライヴの「爆音」を楽しめる人ならば、また違った聞こえ方がしたかもしれない。他の人の感想を聞いてみたいものだ)。それゆえ、ここでこの作品や演奏についてあれこれ述べるのは止めておきたい(ただ、音楽の構成が――40分ほどの演奏時間も相俟って――かなり冗長に聞こえたことだけは言っておこう)。

 ともあれ、演奏会としては実に聴き応えのあるものであり、このような会を実現させた演奏者及び関係者の方々へは「よくぞやってくださいました!」と感謝の言葉しかない。とともに、先立つ3回を聴き逃したことが悔やまれる。次回の第5回が今から楽しみでならない。