2025年9月16日火曜日

ランドフスカのピアノ演奏

  ワンダ・ランドフスカ(1879-1959)といえば20世紀前半におけるチェンバロ復興の立役者だが、元々はピアニストとして出発した人である。そして、この楽器の演奏を完全にやめることはなかった。最晩年にもハイドンやモーツァルトのソナタをいくつか録音いているが、それがまことに味わい深い演奏なのである。今日も久しぶりに聴き直してみたが、やはり魅了されてしまう。

たとえば、モーツァルトのK 333https://www.youtube.com/watch?v=cY1Ab-vFFDo&list=PLB8BDD273FBB81B07&index=14)。随所に自由な装飾を加えている点は、その後の世代の「楽譜に書かれている以外のことはしない」という流儀とは異なる。ランドフスカは「バッハを彼の流儀で弾く」と言い切った人だが、このモーツァルトはかなりロマン的に聞こえる(どころか、所々、同時代の「表現主義」的な瞬間さえある。そのことは、彼女が弾くバッハなどにも言えることだ:https://www.youtube.com/watch?v=KSg2x7Z_JFk&list=RDKSg2x7Z_JFk&start_radio=1)。が、それはそれとして、音楽の筋書きがはっきりわかる、説得力に富む演奏だ。

ランドフスカの演奏がかくも面白いのは、おそらく、彼女が演奏をたんなる「再現」ではなく、「再創造」だと考えていたからではなかろうか(そのことを裏付ける文言はすぐには引けないが、彼女の演奏のありようからそう推定される)。だとすれば、彼女の演奏を「真正さ」などという観点から聴いたり論じたりしても仕方があるまい。それにふさわしいのは演奏ぶりを「味わう」ことであろう。そして、そうすれば今日の聴き手や演奏家にもいろいろと得るところがあるはずだ。

2025年9月15日月曜日

グバイドゥーリナやシチェドリンが亡くなっていた

  今年の3月にソフィア・グバイドゥーリナが亡くなっていたことを(またしても)遅ればせながら知った。1931年の10月生まれなので、93歳だった。私は彼女の音楽には関心はあったのだが、さほど多くは聴いてこなかった。それゆえ、これからのお楽しみということにしたい。

なお、ふと気になって旧ソ連で同世代の大物ロディオン・シチェドリン(1932 12月生まれ)が存命か調べてみると、果たして今年の8月に亡くなっているではないか。彼の音楽も好ましく思っていたのだが、上に同じ。

聴きたい作曲家と作品はいろいろあるが、時間には限りがあるので、あれもこれもというわけにはいかない。自分の直感に従うのみである。過去の人に対してだけではなく、今現在の作曲家に対してもまた。

2025年9月8日月曜日

アンジェイ・パヌフニクの音楽に深い感銘を受ける

  ポーランドの作曲家アンジェイ・パヌフニク(1914-91)の作品を私は以前から好ましく感じていた。が、ここ数日、管弦楽曲を中心に改めていろいろと聴き直してみたところ、深い感銘を受け、本当にすばらしい作曲家だと確信するに到った。

同国で同世代のヴィトルト・ルトスワフスキが次第に先鋭的な作風へと進んでいったのに対し、パヌフニクの作風は20世紀後半にあってかなり穏健だ(ちなみに前者は共産主義体制の母国に留まったのに対し、後者は英国に亡命して活動した)。しかしながら、音楽の中身は非凡で、そこには独自の世界がある。たとえば、次の曲などどうだろう:https://www.youtube.com/watch?v=mMMQ5ItF6Xs&list=RDmMMQ5ItF6Xs&start_radio=1。独奏ピアノ、そして管弦楽のありようはまことにユニークだ。とりわけその神秘的な響きには得も言われぬ魅力がある。この曲は1957年からスケッチがとられはじめ、62年にいったん仕上げられるものの、1982年に改訂がなされている。あるいは、次のピアノ曲(1984年の作)などどうだろう:https://www.youtube.com/watch?v=5DL2ew-Z-ag&list=RD5DL2ew-Z-ag&start_radio=1。これら2曲はいずれも音数はさほど多くないのに、音楽の密度は実に高い。作風は保守的でもなければ前衛的でもないが、やはり時代の何かがそこには確実に刻印されているようだ。と共に、どこか時代を超越しているようなところもある。とにかく、今聴いても実に面白い。

それにしても、このパヌフニクのような作曲家の作品を聴くと、20世紀の音楽にはもっといろいろと探ってみるべき点があることがわかる。これからの音楽のありようを考える上ででもだ。

2025年8月30日土曜日

西洋音楽のホールで文楽を

  今日は伏さしぶりに演奏会へ。それは『片岡リサ プロデュース 新・日本の響き和のいずみ  第3回』である(https://www.izumihall.jp/schedule/20250830)。いや、実に面白かった。

 

演目は(上のリンク先にもあるが)次の通り:

 

オープニング演奏 大阪府立東住吉高等学校 芸能文化科3年生による演奏

長唄「越後獅子」

◆和楽器の現代作品、そして未来へ

楽器紹介コーナー(長唄・地歌・義太夫)

玉岡検校:鶴の声

山根明季子:マザーズ(委嘱新作)

 

◆古典作品から和楽器の歴史と魅力を知る

「壇浦兜軍記  阿古屋琴責の段」より

 

冒頭の「越後獅子」では20挺近い三味線の響きはしばしば歌声を覆ってしまいはしたもののその若さ溢れるパフォーマンスには得も言われぬすがすがしさがあり、すばらしい幕開けだった。

続く楽器紹介コーナーは既知の事柄のおさらいではあったが、楽しく聴かせてもらった。とともに、やはり3種の三味線の中では太棹、すなわち文楽で用いられているものが自分にはもっとも好ましく感じられることを再確認した次第。

私が今日の演奏会に出かけた動機の1つは、山根明季子の新作が聴けるということだった。この人の作品はとにかく「聴かせる」力を持っており、今回もそうだった。箏と太棹三味線、それに録音されたボーカロイドの音声を用いた作品だったが、音楽のつくりはまことにシンプルで、ボーカロイドが歌う主題(土台)となる旋律の反復に2つの楽器が絡む、というものだ。その反復の際にその都度前者は「歌い方」を、後者は奏法・音色(やちょっとした音の動き)を微妙に変え続けるのだが、これが旋律の呪文のような(それこそもう一歩誤るとうんざりさせられてしまうその寸前で踏みとどまっている)反復に不思議な奥行きを与え、ドラマを生み出す。作曲者自身がプログラム・ノートに記した作品の構想の成否はともかく、聴いていて面白い作品であり、作曲者の技の冴えに唸らされる。ただ、敢えて言えば、そこでは箏と三味線はあくまでも「素材」に過ぎず、作品の本質的な部分でそれらの楽器が十分に活かされてはいない(これは1人山根だけではなく、邦楽器を用いる西洋音楽の作曲家が抱える難問である)ように感じられた(たぶん、この作品の構想は、西洋楽器の小さなアンサンブルによっていっそうよいかたちで実現できるのではなかろうか?)。が、それはそれとして魅力的な作品を聴かせてくれた作曲者には感謝。

さて、最後は私にとっての今日の本命、「壇浦兜軍記  阿古屋琴責の段」である。これは期待通りの見応えある舞台だった。ところが、自分は文楽をまだ見慣れていないので、ここでは「とにかくすばらしかった」としか言えない(桐竹勘十郎の人形遣いや豊竹呂勢太夫の語り、そして、他の演者たちの芸に魅せられてはいても、それを具体的に述べる語彙と表現を私はまだ手にしていない)のが残念(ただ、1つ「おやっ?」と感じたことがある。それは国立文楽劇場で文楽を観(聴い)ていたときに比べ、随分楽器の音が大きく聞こえたことだ。これはホールのすばらしい音響特性のゆえだろうか? だとすると、太夫の声も同様により大きく聞こえるはずなのだが、なぜか私には楽器の音の方が大きく、場合によっては太夫の声を覆い隠してしまっていたように感じられたのである。他の聴衆にはどのように聞こえていたのだろうか?)。

ともあれ、全体としてまことに充実したすばらしい演奏会だった。今回の演者の方々、作曲家、そして、演奏会の企画・運営に関わった方々に心から御礼を申し上げたい。

2025年8月22日金曜日

高橋悠治の名盤が復活していた

  私が少年時代にLPで愛聴していた名盤がCDでいつの間にか復活していた。それは高橋悠治のアルバム『シーズンズ』(https://kojimarokuon.com/products/alm-14)。ジョン・ケィジとJ. S. バッハの作品を収めたライヴ録音盤である。選曲・演奏ともにまことにすばらしい。中でもケィジの《四季》は珠玉の名曲であり、彼の音楽をあまり知らない人でもたちまち魅了されることだろう。また、バッハのトッカータハ短調BWV911の演奏もまことにスリリングであり、私はいまのところこれ以上に面白い演奏を知らない。

演奏は1974年のものだというから、およそ半世紀前だということになる。私が聴いていたのは1980年代前半だが、それでも40年ほど前である。とにかく、この盤が好きで繰り返し聴いたのだが、そのうちLPやそれダビングしたカセット・テープを再生できる機械を手放してしまったので、長らく「お別れ」の状態が続いていた。だが、今回のCDによる復活のおかげでこの名盤に再び触れることができるようになるわけで、とてもうれしい(まだ購っていないが、近いうちに是非!)。未聴の方も是非、お試しあれ。

2025年8月15日金曜日

マーラーの第9交響曲のすばらしいピアノ独奏版

  昨晩、たまたま次のものを見つけた:https://www.youtube.com/watch?v=RscXoTm75n8&list=RDRscXoTm75n8&start_radio=1。マーラーの第9交響曲のピアノ独奏版である。これがまことにすばらしい編曲なのだ。

まず、原曲のかなり複雑なポリフォニーを巧みにピアノで再現している。元のスコアの「眺め」と比べてこの編曲の譜面(ふづら)はかなりすっきりしているが、実際の鳴り響きは不足感を微塵も起こさせない。

のみならず、ごく自然なピアノ音楽に仕上がっているところがすごい。もちろん、そのための工夫を編曲者は随所で行っている。たとえば、上の動画の第4楽章冒頭数小節をごらん(お聴き)いただきたい(58’12”から)。原曲は弦楽器で奏でられる箇所だが、スコアの音をそのままピアノに置き換えるだけでは、ここは何ともしまらないことになってしまう。というのも、ピアノは「打楽器」なので一度出した音は減衰するしかなく、弦楽器のように長く延ばす音は出せないからだ。そこで、この編曲者は動画の楽譜に示されているような処理を施すわけだが、うまいものである。

さらにいえば、上の動画は編曲者イアン・ファーリントン(https://www.iainfarrington.com/)自身による演奏だが、これがまたすばらしい(もっとも、よく聴くと、なんだか自動演奏ピアノを用いているように聞こえなくもない。が、仮にそうだとしてもその音楽づくりはきちんとしている。なお、同氏のピアニストとしての能力の高さは次のものからわかる:https://www.youtube.com/watch?v=VcYFns8nito&list=RDVcYFns8nito&start_radio=1)。この人はマーラーの交響曲を第8と《大地の歌》を除いてすべて編曲し演奏しているが、(つまみ食い式に聴いた限りでは)そのどれも見事だ(それらはすべてYouTubeで公開されているし、楽譜も出版されている(https://www.ariaeditions.org/store/c3/Piano_solo.html))。

 

今日は81回目の終戦の日。やはりいろいろなことを考えさせられる日である。

2025年8月13日水曜日

岩井克人『経済学の宇宙』に深い感銘を受ける

  たまたまご近所図書館で手にした岩井克人『経済学の宇宙』(日本経済新聞出版社、2015年)を読んでみたが、実に面白い。著者が主流派たる「新古典派経済学」から離脱し、古典との対決を通して独自の理論――たんなる「経済学」に留まらない「人間科学」――を構築していくさまはまことに感動的なドラマだ。同書刊行の2015年から10年が経っているわけだが、その後、著者の思索はどのように進展したのだろうか。是非とも知りたいものだ(ただし、私のような門外漢にもわかるようかたちで書かれたものによって)。

同書でとりわけ印象深かったのが、ある時期以降の著者にとって「倫理」の問題が重要なものとなっていたことである。それは現在の世界を席巻している新自由主義――この国をも蝕んでいる恐るべき思想――ではおよそ顧みられない問題だけになおのこと。

もっとも、別のところでこの著者が20117月の時点で「法人税減税」や「消費税増税」を支持していた(浜田宏一『21世紀の経済政策』、講談社、2021年、173頁)のには正直驚いた。その後2回行われた消費税増税はこの国の景気に大きな打撃を与えているわけだが、そのことについて著者の見解を聞いてみたい気がする。

ところで、毀誉褒貶の激しいMMT(現代貨幣理論)だが、支持派と反対派両者の言い分を見比べる限りでは、前者に分があるように思われる(前掲書『21世紀の経済政策』の著者――新自由主義に与する人――でさえ、MMTのことを「その社会的役割を考えると、日本のように財政バランス墨守という財務省的見解が旧来からマスコミに刷り込まれている社会には、解毒剤として望ましいと思う」(同書、612頁)と述べているのだ)。もちろん、私は経済学理論にはど素人だが、少なくとも「失われ30年」を現出させた実績を持つ「財政規律」とやらを重んじる政策――アベノミクスはそれとは異なるものだったにしても、結局、大勢を変えるに到っていないのではないか――(とその担い手たち)を信じることはできない。

今、不景気な世の中にはまことに不穏な雰囲気が漂っているが、為政者には「衣食足りて礼節を知る」 という格言をよくよくかみしめてもらいたいものだ(なお、ヒトラーのように経済施策によって国民の心を掴んだ人もいるので、現在この国で積極財政を政策として掲げる政治家であっても、その他の面についてはよくよく用心する必要はあろう)。今日は柄にもないことを述べたが、たまにはこんなことも……。

2025年8月8日金曜日

マデルナの名作《コンティヌオ》

  ブルーノ・マデルナ(1920-73)の名作《コンティヌオ》(1958https://www.youtube.com/watch?v=NkjaBbJSaWQを久しぶりに手持ちのCDで聴いてみたが、やはりすばらしい。昔々の電子音楽なので「手づくり感」が色濃くあるが、そこがまたよい。当時用いることのできたごく限られた手段を最大限に活用した作曲者(と技術者)の想像力・創造力に感服するばかり。とにかく、音のドラマとしての説得力は抜群だ。とりわけ暗闇の中で聴く場合には。

 ちなみに、私がこの 《コンティヌオ》を初めて聴いてのは1980年代後半。すると、当時、それはまだ「少しばかり昔の」作品であり、それほどレトロ感はなかった。が、それからおよろ40年も経つと「昔々の」ものとなってしまい、感じ方も変わってくるわけだ。では、今日の若者がこの作品を初めて聴くときにはどのように感じるだろうか?

2025年8月4日月曜日

これは凄い!

  これは凄い! 日本の電子音楽研究の大家、川崎弘二氏の新著である:https://www.filmart.co.jp/books/nhk_music/。あまりに高価なのですぐには手が出せない(ので、たぶん、まずは夏休み明けに大学の図書館で借りて読むことになるだろう)が、いずれ是非とも購いたい。

 少年時代に私はNHK-FM「現代の音楽」を愛聴していたが(現在の同番組はほとんど手抜きだとしか言いようがない。残念)、そこでは同局の電子音楽スタジオ制作の作品がいろいろ取り上げられていた。もちろん、そのすべてが名作・傑作だったわけではない。が、とにかく新しい何かが生まれてくるのに立ち会っているという実感が当時はあった。

 今となってはNHKが電子音楽を積極的に制作していたことは歴史の一齣となった。だが、今「現代の音楽」に(愛好者も含めて)関わる者にとって、それを顧みることには十分な意味と意義があるように思われる。

2025年7月30日水曜日

「名手たちによるフォルテピアノと18世紀オーケストラによる演奏会」

  昨晩、食後にラジオをつけると、NHK-FMで「名手たちによるフォルテピアノと18世紀オーケストラによる演奏会」(2024311日 東京オペラシティ コンサートホール)というのをやっていた。演目を確認するとモーツァルトの交響曲を「前座」とし、ショパンのピアノと管弦楽のための作品をメインに据えたものだった。まさにショパンの部が始まろうとしていたところなので、「ものは試し」ということで聴いてみたが実に面白かった。それにはショパンの作品もさることながら、フォルテピアノという楽器の魅力も大きく与っていた。

 ショパン作品で演奏されたのは次の通り(括弧内は担当ピアニスト。管弦楽はすべて「18世紀オーケストラ」(指揮者なし)):

 

ポーランドの民謡の主題による幻想 作品13(川口成彦)

演奏会用ロンド「クラコヴィアク」作品14 (トマシュ・リッテル)

ピアノ協奏曲第1番 ホ短調 作品11 (ユリアンナ・アヴデーエワ)

 

はじめの2曲はなかなか演奏会では耳にできないが、もっと演奏されてもよい佳曲である。そして、演奏がまた実によい。私はこれらに普通のピアノによる録音で親しんでいたが、フォルテピアノの演奏で聴くと音楽の繊細な味わいがいっそう強く感じられた(同じことは管弦楽についても言える)。

 ところが、最後のアヴデーエワの演奏には些か違和感を覚えた。つまり、なるほど立派な演奏なのだが、どこか窮屈な感じがぬぐえないのだ。それはいわば、日頃着物を身につける習慣のない人がそれを着たときの挙措動作に看て取られるようなものだと言えようか。つまり、フォルテピアノという楽器がそこでは演奏への制約のように感じられたのである。この楽器ならではの繊細な表現を十分に引き出せず、「力技」で何とか乗り切っているような感じなのだ。先立つ2曲の演奏ではそのようなことはなかった。ということはおそらく、アヴデーエワがまだフォルテピアノの扱いに習熟していないからではなかろうか(もっとも、これはあくまでも私個人の聞こえ方にすぎない。全く逆の評価を下している人もいるのだから:https://spice.eplus.jp/articles/327054)。

  それはともかく、改めてフォルテピアノという楽器の特質、モダン・ピアノとの違いをとても面白く感じた。ところで、ショパンが現代のピアノとピアニストによる演奏を聴いたらどんな感想を持つだろうか(もしかしたら彼は憤慨するかもしれないが、だからといって現代の音楽実践が誤っているということなのではない)。


2025年7月24日木曜日

急にネルソン・フレイレが聴きたくなり

  急にネルソン・フレイレが弾くショパンの第3ソナタを聴きたくなり、手持ちのCDを取り出してきた。彼には新旧2つの録音があるが、今回は1969年の旧録音(発売は1972年)を。1944年生まれの人なので当時25歳になる年だったわけだが、詩情溢れる何とも見事な演奏である。やはり名ピアニストだったと再確認した次第。いちおう「だった」と言うのは2021年に亡くなっているからだが、録音で聴ける以上、私にとってフレイレは現在も名ピアニスト「である」。

 そこでふと気になって、いったい現在フレイレのCDがどれくらい出ているものかを調べてみる。すると、驚くべきことにごくわずかしかなく、生産中止で現在では入手できないものが多かった。まさに「去る者は日々に疎し」の言葉通りである。あれほどすばらしいピアニストなのに……。

 もっとも、これは彼に限ったことではない。生前にいかに盛名を馳せた音楽家であっても、ほとんどの人がそうなってしまう。現在活躍している音楽家が数多おり、また、次々と新星が登場してくるのだから。それゆえ、亡くなった人が比較的早く忘れられていくのは仕方がないことなのかもしれない。

 とはいえ、録音が商品として市場から姿を消したとしても、今やインターネット空間の中で生き残る可能性はある。実際、件のフレイレの録音もYou Tubeで聴くことができる(https://www.youtube.com/watch?v=15QCHMHhXW4)。だが、こうなると現役の音楽家はたいへんである。死者もライヴァルになってしまうのだから。……いや、もっと違ったふうに考えた方がよかろう。すなわち、死者は生者の「ライヴァル」などではなく、は共に音楽の世界をかたちづくるものとなる、と。

2025年7月21日月曜日

メモ(148)

  いわゆる「高級文化」には銭がかかる(言うまでもないが、そのこととその具体的な良し悪しは全くの別問題である。「高級」であることは内容の価値を保証するものではない)。「クラシック音楽」もまた然り。その水準を維持するのみならず、それ自体の存続のためには「商売」を度外視したところでお金をかけざるをえない。そこをケチると、まず間違いなく、あっという間に衰退してしまうことだろう。

 だが、それはそれとして、クラシック音楽のすべてがそのようなものであるわけではないし、また、そうあるべきではないとも思う。お金のかかる「一流」(という言い方もあまり好きではないが)以外のところでも、多種多様な豊かな音楽活動が営まれてこそ、本当の意味でクラシック音楽が1つの文化としてこの国で存在意義を持つのだと言えよう。

 「一流」と「その他」はいわば車の両輪である。そのどちらが欠けても物事はうまく進まない。が、現在の私がいっそう強い関心を持つのは後者である。それはおそらく、1人の愛好家としての(客観的に見れば何ほどのものでもないが、自分にとってはかけがえのない)音楽生活に立脚して物事を考え、感じているからだろう。手持ちの材料や現在置かれている状況の中で人がいかに豊かな音楽生活を送ることができ、さらには、それが人生をどう豊かにできるのか――これこそが私にとっての切実な問題である。

2025年7月18日金曜日

ブゥレーズ作品の旧版の扱い

  ブゥレーズは少なからぬ自作を何度も改作している。が、生前にドイツ・グラモフォンから出たCDの「作品全集」に収められているのは、1曲を除き、最終版による録音だ。ということはつまり、彼は最終版がベストだとみなしており、それ以前のものはお蔵入りさせたいということなのだろう(他のところから自身の指揮による旧版の録音が出ているが、それは「記録」ということで容認したのだろうか?)。

 すると、現在、彼の作品を演奏する場合も最終版に拠らねばならないということになるのだろうか? なるほど、作曲家の意向を重んじるならばそうすべきだ。実際、改作された出版譜の旧版が(〈マラルメによる即興曲Ⅰ〉を除いて)絶版になっている(ということはつまり、演奏用の貸し譜もない)以上、著作権が切れるまではブゥレーズの意志は貫徹されることになろう。

 とはいえ、作曲者が自分の作品の最良の理解者だとは限らない。本人が気づいていない「よさ」を他人が作品に見出す可能性は十分にあろう。だからこそ、いろいろな作曲家について、その没後、本人がお蔵入りにした旧版を取り上げる演奏家がおり、それに拍手喝采を送る聴き手もいるわけだ。ならば、同じことが将来ブゥレーズ作品でも(生き残ったものについては)起こるに違いない。著作権が切れるのは随分先のことなので、私にはそれを確認することはできないが。

2025年7月14日月曜日

何とも不思議なシューマンの室内楽曲

  このところシューマンの室内楽曲をあれこれ聴き直している。先日も弦楽四重奏曲第1番作品411やピアノ三重奏曲第3番作品110を楽譜を見ながら聴いたが、改めて何とも不思議な音楽だと感じた(もちろん、「不思議な」は讃辞)。彼の他の器楽曲、すなわち、ピアノ独奏曲や管弦楽曲などではあまりこうした感じは受けない。もしかしたら、シューマンの器楽曲でもっとも先鋭的なのは、そして、幻想的なのは室内楽曲なのかもしれない。ともあれ、当分はあれこれの作品に耳を傾けることにしよう。

 

今日は愛犬セラフィン(2002-2014)の命日。肉体は滅んでも私の中で今も生き続けており、それは今後も変わるまい。


 

2025年7月11日金曜日

『ミニマ・エステティカ』のためのメモ

  自分にとってかけがえのないものであるならば、他人が何と言おうと、大切にすべきであろう。逆に、あるものが自分を苦しめるのならば、どれほど世の中で「よい」とされているものであっても、そんなものはない方がよい。

自分が「よい」と思っているものであっても、他人も同じふうに思うとは限らない。その逆も然り。

 音楽は人々を繋ぐものでもありえれば、分断するものでもありうる。

-----------------------------------------------------

 

 新しい憲法の構想案の中で「国家主権」を明記している政党があるが、ただただ驚愕。狂気の沙汰としか言いようがない。

2025年7月8日火曜日

坂本龍一の習作の行方

  坂本龍一が大学受験まで学んだ「松本作曲教室」では定期的に門下生の作品発表会を行っていた。のみならず、出品作品をすべて印刷して冊子にまとめていた。当然、その中には坂本少年の作品も収められている。

 件の冊子はあくまでも私家版であり、公的には出回っていない。大量の在庫が松本民之助亡き後も当人の作品集や著書とともに保管されていたのだが、住居を処分する際に遺族がすべて裁断処分してしまった(と、当事者の松本清先生からうかがった)。それゆえ、坂本龍一が少年時代にどのような曲を書いていたかは知りようがない。それは習作にすぎなかっただろうが、学生時代の作品から推し量れば、かなりの高水準の習作だったであろうと思われる。

もっとも、坂本本人はそうした習作を他人に見られたくはなかったようだ。亡くなる少し前にその返却を清先生に頼んだというが(このことは以前、このブログで話題にした)、さもありなん。まあ、松本作曲教室の「作品集」を今でも保存している門下生はいるかもしれないから、探し出せば坂本少年の作品を見ることはできるかもしれない。が、そんな野暮なことはしない方がよかろう(こう言うと、「そう思うならば、そもそもこのようなことを話題にすべきではない」とつっこまれるかもしれない。が、坂本の習作に対する好奇心が自分にあることは否定できない)。

2025年7月4日金曜日

「現代音楽」からの転向者たち

  「現代音楽」が華やかなりし頃に最前線で活躍していた作曲家の中には「転向」を果たし、そうした音楽の批判者となった人たちが少なからずいる。いったい何ゆえに彼(女)らは自らの過去を否定し、その後、どのような創作を行うに到ったのか――このことについて具体的な事例を集めて考察してみることは20世紀の西洋芸術音楽史を見る上で意義深いことであろう。

昨晩、恩師の松本清先生とGoogle Meetで四方山話をしている中で先生の兄、松本日之春(1945-2023)氏の「転向」のことが話題の1つとしてあがった。日之春氏はある時期以降、創作のありようを大きく変えているが、それは結局、自分の「前衛」時代や「現代音楽」へのアンチテーゼとしてあるものだったとのことだ(それゆえ、清先生との会話の中で晩年の日之春氏は過去の自身の創作はもちろん、「現代音楽」についても否定的に語っていたという)。これはなかなかに興味深いことである。

 清先生や日之春氏の父たる作曲家・松本民之助(1914-2004)の歌曲を私は数年前から関心を持って調べているが、勉強するばかりではなく、この辺で「中間報告」のような文章を書かねばと思っている。公刊された作品数が少なく、ほとんどが自筆譜のまま残されているのでまだその全貌は掴みかねているが(作品のほとんどは歌曲で総数8000曲を超える)、その「歌曲」の創作美学については何とかまとめられるような気がしているので、もうじき始まる大学の夏休み中にその作業に(も)励みたい。

2025年7月1日火曜日

メモ(147)

  西洋芸術音楽の流儀で日本語による歌曲を書く場合、(音高のみならずリズムの面でも)自然な旋律美を追究すると日本語の響きが少なからず損なわれてしまうし、かといって、日本語の特性を最大限に活かそうとすると「語り」のようなものになってしまい、旋律美を実現するのが難しくなる。

 かつての日本(語)歌曲作家の中には「旋律」と「語り」の狭間で悪戦苦闘する者がそれなりにいたようだが、今はどうなのだろう? 昨今の種々の歌曲集からは「旋律重視」の傾向が観て取られるが、もちろん、だからといってそれらの作曲者が日本語を軽視しているわけでもあるまい。

2025年6月29日日曜日

『演奏行為論』が品切れ・重版未定に

  拙著『演奏行為論』がようやく版元で品切れ・重版未定となった。2018年刊だから7年少しかかったことになる。つまり、あまり売れなかったわけだ(それゆえ、まず重版はあるまい。これはやはりすでに品切れ・重版未定となっている『黄昏の調べ』についても同じことだろう。それゆえ、いずれの本もまだ入手可能なうちにどうぞ!)。そのようなもの(もちろん、自分としてはそれなりのものを書いたつもりではあるが……)を出してくれた春秋社にはただただ感謝あるのみ。

 

2025年6月24日火曜日

一長一短

  ラジオをつけると、J. S. バッハの《ゴルトベルク変奏曲》の弦楽三重奏版をやっていた。久しぶりにこの編曲を聴いたが、なるほどこれはこれで面白い。が、原曲の持つ「スリル」が少なからず失われているようにも感じられる。確かに三重奏だと「1人1パート」なので声部がはっきり分離して聞こえるのみならず、原曲では至難のパッセージも何とも軽々とこなされている。他方、原曲、とりわけチェンバロのように鍵盤が2段ではないピアノではなかなかそうはいかない。しかしながら、難所を演奏者がいかに巧みに切り抜け、ポリフォニーを鮮やかに弾きこなすかという点は、この作品の重要な聴きどころの1つではなかろうか。

  もちろん、弦楽三重奏版にもそれなりのよさはあるし、たまに聴くと楽しい。が、どうせならばもっと大きな楽器編成であれこれ工夫した編曲があってもよいとも思う。

 

 演奏系の学生にとって音楽理論はとても重要ではあるが、中途半端に和声や対位法の実習を課すくらいならば、楽曲分析をきちんとできるようにさせる方が格段に有益であろう。

 

2025年6月22日日曜日

西洋音楽の作曲家の手になる「現代邦楽」曲への疑念

  NHK-FM「現代の音楽」で先週と今週、久保田晶子(薩摩琵琶)の「那由多の月」と題した演奏会を聴く。演目のほとんどは新旧の「現代邦楽」曲であり、最後に古典曲が取り上げられた。もっとも深い感動を持って聴けたのは最後の演目であり、「現代邦楽」曲はそれに比べれば今ひとつ面白くない(が、間宮芳生の《奥浄瑠璃「琵琶に磨臼」》と武満徹の《エクリプス》はそれなりに楽しかった)。その理由はおそらく、薩摩琵琶という楽器(ひいてはその背後にある音楽の「伝統」)を作曲者がうまくつかいこなせていないからであろう。多くの曲では薩摩琵琶の音はたんなる「素材」や「効果音」に留まるものであり、わざわざこの楽器を用いなくてもよいのではないかと思わされるものであった。もちろん、邦楽器のために新しい作品が書かれるのはまことにけっこうなことであるし、その中から名曲が生まれることへの期待は私にもある。が、たぶん、そうしたものは「伝統」をしかと身につけた邦楽器の演奏家自身が作曲した方がもっとよい結果を生むのではないだろうか。もちろん、西洋音楽の作曲家が邦楽器の作品に挑戦して悪いというのではない。が、その場合、自身がすでに西洋音楽で行っているのと同様に、当該楽器(やそれに類する楽器)の(「歌」を含む)演奏その音楽の伝統的な様式をある程度身につけてからにした方がよかろう。

2025年6月19日木曜日

ベアトリーチェ・ラナのバッハに魅せられる

  今朝のFMでベアトリーチェ・ラナが弾くバッハの協奏曲を聴く。とてもよい感じだった:https://www.youtube.com/watch?v=WC5GjWN5LJQ

このピアニストの演奏は手持ちのラヴェル・ボックスやストラヴィンスキー・ボックスに収められていてので耳にしてはいたのだが、特に注意を惹く演奏ではなかった。が、今日のバッハはそうではなく、はつらつとした「生」の躍動にぐっと引き込まれてしまう。それゆえ、これからこの人の演奏をもっといろいろ聴いてみたい。

 私は自分で積極的に未知の演奏家や作曲家を見つけようとすることはなく、概ね「たまたま」の出会いを待っている。だから、知らずにいる人の方が多いことだろう。が、何が何でも聴かなければならない作曲家や演奏家などそうそういるわけでもないので、これでよいと思っている。もちろん、ときには「聴き逃し」を後悔することもないではないが、仕方がない。人生の時間は限られているので、あれもこれもというわけにはいかないからだ。「ご縁がなかった」ということで。

2025年6月17日火曜日

独唱の演奏会を聴きに行くことはあっても

  私の場合、独唱の演奏会を聴きに行くことはあっても、合唱の演奏会に足を運ぶことはまずない。それは合唱という演奏形態は基本的に自分が参加してこそ楽しめるものだと思っているからであり、それゆえに客席でただ聴くだけの身としてはある種の疎外感を覚えてしまうからだ(とりわけ、母語の日本語による合唱曲の場合)。

ただし、柴田南雄の一連のシアター・ピースはやはり演奏会場で聴きたい。その稀有の演奏効果は録音では十分に味わえないものだからだ。それに加えて、そこで聴かれるものの大半が「歌」ではなく総体としての「音響」だからということもある。「音響」ならばひたすらそれに耳を傾けるしかなく、疎外感を覚えることもない。

自分でも合唱に参加してみたい名曲はいくつもあるが、ベートーヴェンの第9もその1つ。果たして自分は生きているうちにその機会に恵まれるだろうか。  

  

 インターネットの記事の見出しに「謎に満ちたイラン」というものを見つけたが、イスラエルだって十分に「謎」な(ただし、ある面ではとてもわかりやすい)国であろう。ともあれ、今回の件が大きな戦争に繋がらないことを祈るばかり。

 

  

2025年6月11日水曜日

最近、耳について離れない一節

  ごく最近たまたま聴き、それ以来、耳について離れない曲がある。それは次のものだ:https://www.youtube.com/watch?v=j0TI4p5bNls。ご存じ(といっても、ある世代より下の人にとってはそうではないかもしれないが……)永六輔・いずみたくコンビの名曲である。が、よく聴くと歌詞がおかしい。元は「ババンババンバンバン」なのに、ここでは「ババンババンバンバンパイア」なのだ。そして、まさにここに私ははまってしまったのである。馬鹿馬鹿しいが面白いのだ。

 さて、この妙な歌詞の新ヴァージョンだが、それは何と映画の主題歌だという(https://movies.shochiku.co.jp/bababa-eiga/)。そして、こちらのストーリーもまた馬鹿馬鹿しいが面白そうである。ああ、こちらも気になる。 


2025年6月9日月曜日

前回のエコー

  ジョン・ケィジの音楽(とりわけ、偶然性・不確定性以後のもの)を聴いているときに何か他の音が聞こえてきてもあまり気にならない。他方、モートン・フェルドマンの場合にはそうはいかない。前者の音楽の多くとは異なり、後者の音楽は完結した「作品」だからだ。しかも、それはほとんど弱音に終始するので、ちょっとした物音が大きな障害物になってしまう。

それゆえ、そうしたフェルドマン作品を聴くには演奏会場か、周りの音を遮られるリスニング・ルームが好ましいということになろう。だが、私の近場でフェルドマン作品を取り上げる演奏会はほとんどない。仮にあったとしても、後期の長大な作品のうち、2時間以上のもの(中には5時間を超えるものも)については会場の狭い座席でほとんど身動きできずに聴きたいとは思わない。また、自宅には完備したリスニング・ルームも(世の多くの聴き手同様)ない。というわけで、多少の物音はがまんしつつ、長すぎる作品の場合には適度に休憩を挟んで私はフェルドマンの音楽を聴いているわけだが、それで十分満足している。 

2025年6月6日金曜日

モートン・フェルドマンの音楽を久しぶりに楽しむ

  日頃はほとんど見向きもしないのに、時折無性に聴きたくなる作曲家が何人かいる。モートン・フェルドマン(1926-87)もその1人。一昨日もその作品で得も言われぬ至福のひとときを味わった(手持ちのCDで聴いたのは次のものだ:https://www.youtube.com/watch?v=SEzPYIkfYOk&list=OLAK5uy_kCEB0ygO5JcQ7TJ5tkpODK9Dd7Nrl3qMA&index=2)。

 先日たまたま大学の図書館でフェルドマンを論じた本を見つけて読んだのが随分久しぶりに彼のディスクと取り出してきたきっかけである。その本とは高橋智子『モートン・フェルドマン――〈抽象的な音〉の冒険』(水声社、2022年。http://www.suiseisha.net/blog/?p=17380)。フェルドマンについて日本語で読めるものでこれだけまとまった内容を持つものはなく、彼の創作と思考の軌跡がよくわかる良書である。フェルドマン・ファンはもちろん、この点の音楽に興味のある方にはお勧めの1冊だ(私もいずれ購いたい)。これを読み、フェルドマンの音楽に久しぶりに触れてみたくなったのである。そして、やはり彼の音楽はすばらしかった。

 が、前掲書で知ったフェルドマンの「思考」には正直あまりぴんとこなかった。それが彼の音楽から生々しく感じ取られることとあまり一致しているようには聞こえなかったからだろうか。こうした「理論」と「実践」の不一致はフェルドマンの場合に限ったことではなく、少なからぬ「現代音楽」の作曲家について言えることである。が、実のところ私はそのこと事態はあまり気にならない。なぜならば、たとえ理論がどうであろうと、書かれた作品がすばらしいからだ。

 もちろん、そうした「すばらしさ」の内実は聴く人によってかなり違ったものになるだろう。とりわけ、フェルドマンのような音楽の場合には。だが、その音楽のありようを探る際に、敢えて自分や他者の聴体験を出発点とするというのも1つの手としてありうるのではないだろうか。

2025年6月2日月曜日

《恋なんです》

  NHKの「みんなの歌」で《恋なんです》という曲を耳にし、月並みな言い方だが「甘酸っぱい」感じを味わう:https://www.youtube.com/watch?v=YzPWZOgjnCc。放送ではこの動画の2番までしか流されていないので、それしか知らなかったときの感じ方は「ほのぼの」に留まっていたが、最後まで聴くとやはり「切なさ」を覚えずにはいられない。が、それも含めてよい歌だと思う。

 私は基本的には昔の自分のことなど思い出したくもない人間だ(というのも、「恥の多い人生」だったからだ)が、それはそれとして、往時と現在の違いに思いを馳せることはないでもない。それはもちろん、単純に「昔はよかったなあ」ということなどではなく、時代の「違い」を面白く感じているのだ。

 

2025年5月30日金曜日

ショパンの第3ソナタのヘンレ版を入手して

  前回話題にしたショパンの第3ソナタだが、その後、件のヘンレ版を入手した。また、今やなぜかなかなか手に入りづらいベーレンライター版を大学図書館から借りてきて、これら2つの版を手持ちのエキエル版と見比べてみた。

 ドイツの2つ版はフランス初版とそれをショパンが訂正した再版を底本としている。他方、エキエル版が採用したのはドイツ初版とそのために作曲家が用意した浄書譜だ。そして、両者の間には音や記号の違いがいろいろと見られる。

 ところで、これまでに出版されてきた同作品の種々の楽譜はドイツ初版(と作曲者の自筆譜)が元になっていたようだ(ドビュッシーが編集した楽譜でさえ!)。というのも、これまで自分が耳にした演奏はそこでの音と一致しているからだ。それだけに、今回ヘンレ版などで知った違いには驚かされることが少なくない。

 そのヘンレ版には面白い付録がある。それは何とドイツ初版の元になった自筆譜に基づく楽譜だ。昔の校訂版ならば両者から「いいとこどり」として1つの楽譜をつくりあげていたところだろうが(パデレフスキ版や以前のヘンレ版ショパン楽譜などのように)、今やそういうわけにはいかない(とヘンレ版の編者ミューレマンも述べている)。そこで利用者に1つの資料として提供することにしたわけだろう。それをどう利用するかは楽譜の読み手次第。もちろん、それは本体の楽譜についても言えることだが。

 それにしても、このところショパン作品への愛の深まりを感じている。件のソナタに限らず、種々の作品の譜面を読み返し、音を鍵盤上で探っているのだが、以前には気づかなかった点やいっそう面白く感じられるようになった点がいろいろと見つかる。これは何年か冷却期間を置いたからかもしれない(このショパンに限らず、自分が本当に好きな作曲家の作品の「鮮度」を保ち、長くつきあっていく上で、そうした期間は私には欠かせない)。

 

2025年5月24日土曜日

いや、もしかしたら……

  以前、ショパンの第3ソナタのベーレンライター版を話題にした:https://kenmusica.blogspot.com/2025/02/blog-post_4.html。その中で「たぶん、この『元』ヴァリアントが『本文』に昇格することはないかもしれない」と述べたが、今は「いや、もしかしたら……」と思っている。

 きっかけはヘンレ社から2023年に出ていた同曲の楽譜を見たからだ(恥ずかしながら最近、その存在に気づいた)。そこではまさにベーレンライター版と同様な処理がなされていたのである(次の頁で試し読みができる:https://www.henle.de/de/Klaviersonate-h-moll-op.-58/HN-871)。いや、これには驚いた。

そこで気になるのが、新批判校訂版を刊行中のピーターズ社がいずれ出すであろうこのソナタの楽譜だ。もし、それがヘンレやベーレンライターの側につくとすれば……。これまでの演奏の伝統があるので、そう簡単には件の箇所を皆が新本文で弾くようになることはないだろうが(通称「別れの曲」のある箇所のように)、長期的にはどうなるかわかったものではない。

 もちろん、たとえこの新しい版が主流になったとしても、従来の版が誤っているということではない。それがショパンが書いたものに基づいているのは確かなのだから。だが、それはそれとして、こうした事態に遭遇すると、SFで言われる「パラレル・ワールド」を目の当たりにさせられているような気がして面白い(この場合、件の箇所のどちらの稿を採るかで、世界は異なる2つのものに分岐することになるわけだ)。

 

 ところで、ジム・サムスンは『ショパン 孤高の創造者』(拙訳、春秋社、2012年。品切れで重版未定。たぶん、このまま姿を消すことになろう)第10章でショパンの出版譜について論じる中でヘンレ版も批判していたが、それは古い版、つまり、エーヴァルト・ツィマーマン編集のもののことである。同書の原典が書かれた時点ではその版しかなかったのだが、その後、別の編者たちによる新しい版が出だした(まだすべてが入れ替わっているわけではないので、同社のショパン楽譜を利用する方は要注意)。そして、その中の1つ『バラード集』(ノルベルト・ミューレマン編集)を見る限りでは、それはサムスンの批判を免れるものになっていると思われる(このことは同訳書の訳註で触れるべきことであったと反省している)。

 そのヘンレ社の『バラード集』は2008年に出版されているが、これを2006年刊のピーターズ社 のサムスン編集版と見比べると面白い。というのも、両者が「本文」に選んだ稿が異なっており、細部に違いが少なからずあるからだ。私個人の好みでは、第3バラードに関してはピーターズ版を採りたいが、ヘンレ版にもいろいろと教わるところがある。

 エキエル版が立派なものであるのは確かだが、それが「ファイナル・アンサー」だというわけではない(そもそも、そのようものは誰の手でもつくりようがないわけだが……)。

2025年5月22日木曜日

メモ(146)

  日本語は概ね「口先」で発音される。のどをしかと開いて奥から声を出す諸外国語の発音とは大違いだ(もちろん、そのどちらがよいとか悪いとかいう話ではない)。

 すると、この点でも日本人が演奏する西洋音楽は何かしら影響を受けているのではなかろうか(専門的な訓練を積んだ声楽家はそれを免れているだろうが)。

 

 昨日、夜にラジオをつけると、シベリウスの第2交響曲が聞こえてきた。大好きな曲なのでそのまま聴き続ける。すると、これまで馴染んできた演奏解釈とはかなり異なっているようだった。何とも軽やかで風通しがよいのである。「なるほど、こんなふうにもできるのだなあ」ととても面白く思った(演奏はエサ・ペッカ・サロネン指揮のフィンランド放送交響楽団)。そうした多様な営巣解釈を許容するのが「名曲」というものであろうか。

2025年5月20日火曜日

「美しい」でよいのか?

  ゲーテの『ファウスト』中の名文句に、「止まれ、お前はいかにも美しい(du bist so schön!)から」(森鷗外の訳。この「お前」はある「瞬間」に対して言われているものなので、「止まれ」の前に「時よ」などといった語が補われることが多い)というものがある。この台詞自体が「美しい」ものなので、元の文脈から切り離して使いたくなるようなものだ。

 とはいえ、私はその中の「美しい」という訳語にずっと違和感を覚え続けてきた。なるほど、schönという語の第一義は「美しい」だし、素直にそう訳すとまことに詩的な感じがする。が、この場合には「すばらしい」と訳す方が適切なような気がしてならない。訳さなければこの語の多義性は問題にはならないわけだが、訳すとなると最適な言葉を選ばないわけにはいくまい。それゆえ、「美しい」という訳語がいかに美しくはあっても、私ならば採らない。野暮だと言われるのを承知の上で。

2025年5月15日木曜日

「まさに、この一曲の中にすべてがある」

  「まさに、この一曲の中にすべてがあるんだ。こんなにも少ない素材で、ここまで完璧な結果を引き出せるんだからね」――これはラヴェルがある作品を評した言葉である(マニュエル・ロザンタール『ラヴェル――その素顔と音楽論』(伊藤制子・訳)、春秋社、1998年、74頁)。その作品とはサン=サーンスの第5ピアノ協奏曲。スコアを読み、演奏を聴いてみれば、ラヴェルの言うことがよく理解できるはずだ(https://www.youtube.com/watch?v=OVZcDkJ3-bQ)。

 ラヴェル自身のピアノ協奏曲は明らかにこのサン=サーンスの曲の延長線上にあるものであり、もっと遡ればモーツァルトに行き着く。それゆえ、ラヴェルとモーツァルトのピアノ協奏曲を賞賛しているのにもかかわらずサン=サーンスを俗悪だなどと非難するだけの人(たとえば、ある時期の吉田秀和)は、たぶん、前二者の音楽のある重要な一面を聴き落としていたのだろう。

 それはさておき、今日、随分久しぶりにこの第5協奏曲をスコアを眺めつつ聴いてみたが、全く無駄のない音遣いとそこで繰り広げられる遊びにはただただ感服させられるばかり。のみならず、このところいろいろあって曇りがちだった気分が晴れやかなものに替わっていくのを感じた。いや、まことにすばらしい音楽である。「現代の音楽」にもこうしたシンプルで胸を打つものがあればなあ……。

2025年5月11日日曜日

「1970大阪万博のサウンドスケープ」

  今日のNHK-FM「現代の音楽」は「1970大阪万博のサウンドスケープ(1) 未来都市へようこそ!」というもの(https://www.nhk.jp/p/rs/6J686W68QL/episode/re/ZPPW4P5W7W/)で、これは面白かった(題材の勝利!)。こうしたものをその場で体験できた人たちがつくづくうらやましい(私は当時4歳になる年だったので、当然、それはかなわなかった。いちおう、父親に連れられて万博に行ってきたということだが、ほとんど何も覚えていない)。

 伝聞形にせよこのあまりに輝かしいExpo 1970のことを知っているものだから、現在のExpo 2025には全く出かける気がしない。「もはや、そのようなものを行う時代ではない」と思うからでもある。

 とはいえ、それに出かけたい人のことをとやかく言うつもりはない。試しに大学の学生に尋ねてみると、皆、行くつもりだとのこと。なので、私はその感想を聞かせてもらうのを楽しみにしている(なお、私は学生には旧大阪万博の「太陽の塔」を見に行くことを強く勧めている。私も数年前に出かけてきたが、すばらしい体験だった。塔内では松村禎三の《祖霊祈祷》――最初に触れた番組でも取り上げられていた音楽――が流されており、気分を大いに高めてくれる。まだ行ったことのない方は是非、お試しあれ)。