2025年7月30日水曜日

「名手たちによるフォルテピアノと18世紀オーケストラによる演奏会」

  昨晩、食後にラジオをつけると、NHK-FMで「名手たちによるフォルテピアノと18世紀オーケストラによる演奏会」(2024311日 東京オペラシティ コンサートホール)というのをやっていた。演目を確認するとモーツァルトの交響曲を「前座」とし、ショパンのピアノと管弦楽のための作品をメインに据えたものだった。まさにショパンの部が始まろうとしていたところなので、「ものは試し」ということで聴いてみたが実に面白かった。それにはショパンの作品もさることながら、フォルテピアノという楽器の魅力も大きく与っていた。

 ショパン作品で演奏されたのは次の通り(括弧内は担当ピアニスト。管弦楽はすべて「18世紀オーケストラ」(指揮者なし)):

 

ポーランドの民謡の主題による幻想 作品13(川口成彦)

演奏会用ロンド「クラコヴィアク」作品14 (トマシュ・リッテル)

ピアノ協奏曲第1番 ホ短調 作品11 (ユリアンナ・アヴデーエワ)

 

はじめの2曲はなかなか演奏会では耳にできないが、もっと演奏されてもよい佳曲である。そして、演奏がまた実によい。私はこれらに普通のピアノによる録音で親しんでいたが、フォルテピアノの演奏で聴くと音楽の繊細な味わいがいっそう強く感じられた(同じことは管弦楽についても言える)。

 ところが、最後のアヴデーエワの演奏には些か違和感を覚えた。つまり、なるほど立派な演奏なのだが、どこか窮屈な感じがぬぐえないのだ。それはいわば、日頃着物を身につける習慣のない人がそれを着たときの挙措動作に看て取られるようなものだと言えようか。つまり、フォルテピアノという楽器がそこでは演奏への制約のように感じられたのである。この楽器ならではの繊細な表現を十分に引き出せず、「力技」で何とか乗り切っているような感じなのだ。先立つ2曲の演奏ではそのようなことはなかった。ということはおそらく、アヴデーエワがまだフォルテピアノの扱いに習熟していないからではなかろうか(もっとも、これはあくまでも私個人の聞こえ方にすぎない。全く逆の評価を下している人もいるのだから:https://spice.eplus.jp/articles/327054)。

  それはともかく、改めてフォルテピアノという楽器の特質、モダン・ピアノとの違いをとても面白く感じた。ところで、ショパンが現代のピアノとピアニストによる演奏を聴いたらどんな感想を持つだろうか(もしかしたら彼は憤慨するかもしれないが、だからといって現代の音楽実践が誤っているということなのではない)。


2025年7月24日木曜日

急にネルソン・フレイレが聴きたくなり

  急にネルソン・フレイレが弾くショパンの第3ソナタを聴きたくなり、手持ちのCDを取り出してきた。彼には新旧2つの録音があるが、今回は1969年の旧録音(発売は1972年)を。1944年生まれの人なので当時25歳になる年だったわけだが、詩情溢れる何とも見事な演奏である。やはり名ピアニストだったと再確認した次第。いちおう「だった」と言うのは2021年に亡くなっているからだが、録音で聴ける以上、私にとってフレイレは現在も名ピアニスト「である」。

 そこでふと気になって、いったい現在フレイレのCDがどれくらい出ているものかを調べてみる。すると、驚くべきことにごくわずかしかなく、生産中止で現在では入手できないものが多かった。まさに「去る者は日々に疎し」の言葉通りである。あれほどすばらしいピアニストなのに……。

 もっとも、これは彼に限ったことではない。生前にいかに盛名を馳せた音楽家であっても、ほとんどの人がそうなってしまう。現在活躍している音楽家が数多おり、また、次々と新星が登場してくるのだから。それゆえ、亡くなった人が比較的早く忘れられていくのは仕方がないことなのかもしれない。

 とはいえ、録音が商品として市場から姿を消したとしても、今やインターネット空間の中で生き残る可能性はある。実際、件のフレイレの録音もYou Tubeで聴くことができる(https://www.youtube.com/watch?v=15QCHMHhXW4)。だが、こうなると現役の音楽家はたいへんである。死者もライヴァルになってしまうのだから。……いや、もっと違ったふうに考えた方がよかろう。すなわち、死者は生者の「ライヴァル」などではなく、は共に音楽の世界をかたちづくるものとなる、と。

2025年7月21日月曜日

メモ(148)

  いわゆる「高級文化」には銭がかかる(言うまでもないが、そのこととその具体的な良し悪しは全くの別問題である。「高級」であることは内容の価値を保証するものではない)。「クラシック音楽」もまた然り。その水準を維持するのみならず、それ自体の存続のためには「商売」を度外視したところでお金をかけざるをえない。そこをケチると、まず間違いなく、あっという間に衰退してしまうことだろう。

 だが、それはそれとして、クラシック音楽のすべてがそのようなものであるわけではないし、また、そうあるべきではないとも思う。お金のかかる「一流」(という言い方もあまり好きではないが)以外のところでも、多種多様な豊かな音楽活動が営まれてこそ、本当の意味でクラシック音楽が1つの文化としてこの国で存在意義を持つのだと言えよう。

 「一流」と「その他」はいわば車の両輪である。そのどちらが欠けても物事はうまく進まない。が、現在の私がいっそう強い関心を持つのは後者である。それはおそらく、1人の愛好家としての(客観的に見れば何ほどのものでもないが、自分にとってはかけがえのない)音楽生活に立脚して物事を考え、感じているからだろう。手持ちの材料や現在置かれている状況の中で人がいかに豊かな音楽生活を送ることができ、さらには、それが人生をどう豊かにできるのか――これこそが私にとっての切実な問題である。

2025年7月18日金曜日

ブゥレーズ作品の旧版の扱い

  ブゥレーズは少なからぬ自作を何度も改作している。が、生前にドイツ・グラモフォンから出たCDの「作品全集」に収められているのは、1曲を除き、最終版による録音だ。ということはつまり、彼は最終版がベストだとみなしており、それ以前のものはお蔵入りさせたいということなのだろう(他のところから自身の指揮による旧版の録音が出ているが、それは「記録」ということで容認したのだろうか?)。

 すると、現在、彼の作品を演奏する場合も最終版に拠らねばならないということになるのだろうか? なるほど、作曲家の意向を重んじるならばそうすべきだ。実際、改作された出版譜の旧版が(〈マラルメによる即興曲Ⅰ〉を除いて)絶版になっている(ということはつまり、演奏用の貸し譜もない)以上、著作権が切れるまではブゥレーズの意志は貫徹されることになろう。

 とはいえ、作曲者が自分の作品の最良の理解者だとは限らない。本人が気づいていない「よさ」を他人が作品に見出す可能性は十分にあろう。だからこそ、いろいろな作曲家について、その没後、本人がお蔵入りにした旧版を取り上げる演奏家がおり、それに拍手喝采を送る聴き手もいるわけだ。ならば、同じことが将来ブゥレーズ作品でも(生き残ったものについては)起こるに違いない。著作権が切れるのは随分先のことなので、私にはそれを確認することはできないが。

2025年7月14日月曜日

何とも不思議なシューマンの室内楽曲

  このところシューマンの室内楽曲をあれこれ聴き直している。先日も弦楽四重奏曲第1番作品411やピアノ三重奏曲第3番作品110を楽譜を見ながら聴いたが、改めて何とも不思議な音楽だと感じた(もちろん、「不思議な」は讃辞)。彼の他の器楽曲、すなわち、ピアノ独奏曲や管弦楽曲などではあまりこうした感じは受けない。もしかしたら、シューマンの器楽曲でもっとも先鋭的なのは、そして、幻想的なのは室内楽曲なのかもしれない。ともあれ、当分はあれこれの作品に耳を傾けることにしよう。

 

今日は愛犬セラフィン(2002-2014)の命日。肉体は滅んでも私の中で今も生き続けており、それは今後も変わるまい。


 

2025年7月11日金曜日

『ミニマ・エステティカ』のためのメモ

  自分にとってかけがえのないものであるならば、他人が何と言おうと、大切にすべきであろう。逆に、あるものが自分を苦しめるのならば、どれほど世の中で「よい」とされているものであっても、そんなものはない方がよい。

自分が「よい」と思っているものであっても、他人も同じふうに思うとは限らない。その逆も然り。

 音楽は人々を繋ぐものでもありえれば、分断するものでもありうる。

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 新しい憲法の構想案の中で「国家主権」を明記している政党があるが、ただただ驚愕。狂気の沙汰としか言いようがない。

2025年7月8日火曜日

坂本龍一の習作の行方

  坂本龍一が大学受験まで学んだ「松本作曲教室」では定期的に門下生の作品発表会を行っていた。のみならず、出品作品をすべて印刷して冊子にまとめていた。当然、その中には坂本少年の作品も収められている。

 件の冊子はあくまでも私家版であり、公的には出回っていない。大量の在庫が松本民之助亡き後も当人の作品集や著書とともに保管されていたのだが、住居を処分する際に遺族がすべて裁断処分してしまった(と、当事者の松本清先生からうかがった)。それゆえ、坂本龍一が少年時代にどのような曲を書いていたかは知りようがない。それは習作にすぎなかっただろうが、学生時代の作品から推し量れば、かなりの高水準の習作だったであろうと思われる。

もっとも、坂本本人はそうした習作を他人に見られたくはなかったようだ。亡くなる少し前にその返却を清先生に頼んだというが(このことは以前、このブログで話題にした)、さもありなん。まあ、松本作曲教室の「作品集」を今でも保存している門下生はいるかもしれないから、探し出せば坂本少年の作品を見ることはできるかもしれない。が、そんな野暮なことはしない方がよかろう(こう言うと、「そう思うならば、そもそもこのようなことを話題にすべきではない」とつっこまれるかもしれない。が、坂本の習作に対する好奇心が自分にあることは否定できない)。

2025年7月4日金曜日

「現代音楽」からの転向者たち

  「現代音楽」が華やかなりし頃に最前線で活躍していた作曲家の中には「転向」を果たし、そうした音楽の批判者となった人たちが少なからずいる。いったい何ゆえに彼(女)らは自らの過去を否定し、その後、どのような創作を行うに到ったのか――このことについて具体的な事例を集めて考察してみることは20世紀の西洋芸術音楽史を見る上で意義深いことであろう。

昨晩、恩師の松本清先生とGoogle Meetで四方山話をしている中で先生の兄、松本日之春(1945-2023)氏の「転向」のことが話題の1つとしてあがった。日之春氏はある時期以降、創作のありようを大きく変えているが、それは結局、自分の「前衛」時代や「現代音楽」へのアンチテーゼとしてあるものだったとのことだ(それゆえ、清先生との会話の中で晩年の日之春氏は過去の自身の創作はもちろん、「現代音楽」についても否定的に語っていたという)。これはなかなかに興味深いことである。

 清先生や日之春氏の父たる作曲家・松本民之助(1914-2004)の歌曲を私は数年前から関心を持って調べているが、勉強するばかりではなく、この辺で「中間報告」のような文章を書かねばと思っている。公刊された作品数が少なく、ほとんどが自筆譜のまま残されているのでまだその全貌は掴みかねているが(作品のほとんどは歌曲で総数8000曲を超える)、その「歌曲」の創作美学については何とかまとめられるような気がしているので、もうじき始まる大学の夏休み中にその作業に(も)励みたい。

2025年7月1日火曜日

メモ(147)

  西洋芸術音楽の流儀で日本語による歌曲を書く場合、(音高のみならずリズムの面でも)自然な旋律美を追究すると日本語の響きが少なからず損なわれてしまうし、かといって、日本語の特性を最大限に活かそうとすると「語り」のようなものになってしまい、旋律美を実現するのが難しくなる。

 かつての日本(語)歌曲作家の中には「旋律」と「語り」の狭間で悪戦苦闘する者がそれなりにいたようだが、今はどうなのだろう? 昨今の種々の歌曲集からは「旋律重視」の傾向が観て取られるが、もちろん、だからといってそれらの作曲者が日本語を軽視しているわけでもあるまい。

2025年6月29日日曜日

『演奏行為論』が品切れ・重版未定に

  拙著『演奏行為論』がようやく版元で品切れ・重版未定となった。2018年刊だから7年少しかかったことになる。つまり、あまり売れなかったわけだ(それゆえ、まず重版はあるまい。これはやはりすでに品切れ・重版未定となっている『黄昏の調べ』についても同じことだろう。それゆえ、いずれの本もまだ入手可能なうちにどうぞ!)。そのようなもの(もちろん、自分としてはそれなりのものを書いたつもりではあるが……)を出してくれた春秋社にはただただ感謝あるのみ。

 

2025年6月24日火曜日

一長一短

  ラジオをつけると、J. S. バッハの《ゴルトベルク変奏曲》の弦楽三重奏版をやっていた。久しぶりにこの編曲を聴いたが、なるほどこれはこれで面白い。が、原曲の持つ「スリル」が少なからず失われているようにも感じられる。確かに三重奏だと「1人1パート」なので声部がはっきり分離して聞こえるのみならず、原曲では至難のパッセージも何とも軽々とこなされている。他方、原曲、とりわけチェンバロのように鍵盤が2段ではないピアノではなかなかそうはいかない。しかしながら、難所を演奏者がいかに巧みに切り抜け、ポリフォニーを鮮やかに弾きこなすかという点は、この作品の重要な聴きどころの1つではなかろうか。

  もちろん、弦楽三重奏版にもそれなりのよさはあるし、たまに聴くと楽しい。が、どうせならばもっと大きな楽器編成であれこれ工夫した編曲があってもよいとも思う。

 

 演奏系の学生にとって音楽理論はとても重要ではあるが、中途半端に和声や対位法の実習を課すくらいならば、楽曲分析をきちんとできるようにさせる方が格段に有益であろう。

 

2025年6月22日日曜日

西洋音楽の作曲家の手になる「現代邦楽」曲への疑念

  NHK-FM「現代の音楽」で先週と今週、久保田晶子(薩摩琵琶)の「那由多の月」と題した演奏会を聴く。演目のほとんどは新旧の「現代邦楽」曲であり、最後に古典曲が取り上げられた。もっとも深い感動を持って聴けたのは最後の演目であり、「現代邦楽」曲はそれに比べれば今ひとつ面白くない(が、間宮芳生の《奥浄瑠璃「琵琶に磨臼」》と武満徹の《エクリプス》はそれなりに楽しかった)。その理由はおそらく、薩摩琵琶という楽器(ひいてはその背後にある音楽の「伝統」)を作曲者がうまくつかいこなせていないからであろう。多くの曲では薩摩琵琶の音はたんなる「素材」や「効果音」に留まるものであり、わざわざこの楽器を用いなくてもよいのではないかと思わされるものであった。もちろん、邦楽器のために新しい作品が書かれるのはまことにけっこうなことであるし、その中から名曲が生まれることへの期待は私にもある。が、たぶん、そうしたものは「伝統」をしかと身につけた邦楽器の演奏家自身が作曲した方がもっとよい結果を生むのではないだろうか。もちろん、西洋音楽の作曲家が邦楽器の作品に挑戦して悪いというのではない。が、その場合、自身がすでに西洋音楽で行っているのと同様に、当該楽器(やそれに類する楽器)の(「歌」を含む)演奏その音楽の伝統的な様式をある程度身につけてからにした方がよかろう。

2025年6月19日木曜日

ベアトリーチェ・ラナのバッハに魅せられる

  今朝のFMでベアトリーチェ・ラナが弾くバッハの協奏曲を聴く。とてもよい感じだった:https://www.youtube.com/watch?v=WC5GjWN5LJQ

このピアニストの演奏は手持ちのラヴェル・ボックスやストラヴィンスキー・ボックスに収められていてので耳にしてはいたのだが、特に注意を惹く演奏ではなかった。が、今日のバッハはそうではなく、はつらつとした「生」の躍動にぐっと引き込まれてしまう。それゆえ、これからこの人の演奏をもっといろいろ聴いてみたい。

 私は自分で積極的に未知の演奏家や作曲家を見つけようとすることはなく、概ね「たまたま」の出会いを待っている。だから、知らずにいる人の方が多いことだろう。が、何が何でも聴かなければならない作曲家や演奏家などそうそういるわけでもないので、これでよいと思っている。もちろん、ときには「聴き逃し」を後悔することもないではないが、仕方がない。人生の時間は限られているので、あれもこれもというわけにはいかないからだ。「ご縁がなかった」ということで。

2025年6月17日火曜日

独唱の演奏会を聴きに行くことはあっても

  私の場合、独唱の演奏会を聴きに行くことはあっても、合唱の演奏会に足を運ぶことはまずない。それは合唱という演奏形態は基本的に自分が参加してこそ楽しめるものだと思っているからであり、それゆえに客席でただ聴くだけの身としてはある種の疎外感を覚えてしまうからだ(とりわけ、母語の日本語による合唱曲の場合)。

ただし、柴田南雄の一連のシアター・ピースはやはり演奏会場で聴きたい。その稀有の演奏効果は録音では十分に味わえないものだからだ。それに加えて、そこで聴かれるものの大半が「歌」ではなく総体としての「音響」だからということもある。「音響」ならばひたすらそれに耳を傾けるしかなく、疎外感を覚えることもない。

自分でも合唱に参加してみたい名曲はいくつもあるが、ベートーヴェンの第9もその1つ。果たして自分は生きているうちにその機会に恵まれるだろうか。  

  

 インターネットの記事の見出しに「謎に満ちたイラン」というものを見つけたが、イスラエルだって十分に「謎」な(ただし、ある面ではとてもわかりやすい)国であろう。ともあれ、今回の件が大きな戦争に繋がらないことを祈るばかり。

 

  

2025年6月11日水曜日

最近、耳について離れない一節

  ごく最近たまたま聴き、それ以来、耳について離れない曲がある。それは次のものだ:https://www.youtube.com/watch?v=j0TI4p5bNls。ご存じ(といっても、ある世代より下の人にとってはそうではないかもしれないが……)永六輔・いずみたくコンビの名曲である。が、よく聴くと歌詞がおかしい。元は「ババンババンバンバン」なのに、ここでは「ババンババンバンバンパイア」なのだ。そして、まさにここに私ははまってしまったのである。馬鹿馬鹿しいが面白いのだ。

 さて、この妙な歌詞の新ヴァージョンだが、それは何と映画の主題歌だという(https://movies.shochiku.co.jp/bababa-eiga/)。そして、こちらのストーリーもまた馬鹿馬鹿しいが面白そうである。ああ、こちらも気になる。 


2025年6月9日月曜日

前回のエコー

  ジョン・ケィジの音楽(とりわけ、偶然性・不確定性以後のもの)を聴いているときに何か他の音が聞こえてきてもあまり気にならない。他方、モートン・フェルドマンの場合にはそうはいかない。前者の音楽の多くとは異なり、後者の音楽は完結した「作品」だからだ。しかも、それはほとんど弱音に終始するので、ちょっとした物音が大きな障害物になってしまう。

それゆえ、そうしたフェルドマン作品を聴くには演奏会場か、周りの音を遮られるリスニング・ルームが好ましいということになろう。だが、私の近場でフェルドマン作品を取り上げる演奏会はほとんどない。仮にあったとしても、後期の長大な作品のうち、2時間以上のもの(中には5時間を超えるものも)については会場の狭い座席でほとんど身動きできずに聴きたいとは思わない。また、自宅には完備したリスニング・ルームも(世の多くの聴き手同様)ない。というわけで、多少の物音はがまんしつつ、長すぎる作品の場合には適度に休憩を挟んで私はフェルドマンの音楽を聴いているわけだが、それで十分満足している。 

2025年6月6日金曜日

モートン・フェルドマンの音楽を久しぶりに楽しむ

  日頃はほとんど見向きもしないのに、時折無性に聴きたくなる作曲家が何人かいる。モートン・フェルドマン(1926-87)もその1人。一昨日もその作品で得も言われぬ至福のひとときを味わった(手持ちのCDで聴いたのは次のものだ:https://www.youtube.com/watch?v=SEzPYIkfYOk&list=OLAK5uy_kCEB0ygO5JcQ7TJ5tkpODK9Dd7Nrl3qMA&index=2)。

 先日たまたま大学の図書館でフェルドマンを論じた本を見つけて読んだのが随分久しぶりに彼のディスクと取り出してきたきっかけである。その本とは高橋智子『モートン・フェルドマン――〈抽象的な音〉の冒険』(水声社、2022年。http://www.suiseisha.net/blog/?p=17380)。フェルドマンについて日本語で読めるものでこれだけまとまった内容を持つものはなく、彼の創作と思考の軌跡がよくわかる良書である。フェルドマン・ファンはもちろん、この点の音楽に興味のある方にはお勧めの1冊だ(私もいずれ購いたい)。これを読み、フェルドマンの音楽に久しぶりに触れてみたくなったのである。そして、やはり彼の音楽はすばらしかった。

 が、前掲書で知ったフェルドマンの「思考」には正直あまりぴんとこなかった。それが彼の音楽から生々しく感じ取られることとあまり一致しているようには聞こえなかったからだろうか。こうした「理論」と「実践」の不一致はフェルドマンの場合に限ったことではなく、少なからぬ「現代音楽」の作曲家について言えることである。が、実のところ私はそのこと事態はあまり気にならない。なぜならば、たとえ理論がどうであろうと、書かれた作品がすばらしいからだ。

 もちろん、そうした「すばらしさ」の内実は聴く人によってかなり違ったものになるだろう。とりわけ、フェルドマンのような音楽の場合には。だが、その音楽のありようを探る際に、敢えて自分や他者の聴体験を出発点とするというのも1つの手としてありうるのではないだろうか。

2025年6月2日月曜日

《恋なんです》

  NHKの「みんなの歌」で《恋なんです》という曲を耳にし、月並みな言い方だが「甘酸っぱい」感じを味わう:https://www.youtube.com/watch?v=YzPWZOgjnCc。放送ではこの動画の2番までしか流されていないので、それしか知らなかったときの感じ方は「ほのぼの」に留まっていたが、最後まで聴くとやはり「切なさ」を覚えずにはいられない。が、それも含めてよい歌だと思う。

 私は基本的には昔の自分のことなど思い出したくもない人間だ(というのも、「恥の多い人生」だったからだ)が、それはそれとして、往時と現在の違いに思いを馳せることはないでもない。それはもちろん、単純に「昔はよかったなあ」ということなどではなく、時代の「違い」を面白く感じているのだ。

 

2025年5月30日金曜日

ショパンの第3ソナタのヘンレ版を入手して

  前回話題にしたショパンの第3ソナタだが、その後、件のヘンレ版を入手した。また、今やなぜかなかなか手に入りづらいベーレンライター版を大学図書館から借りてきて、これら2つの版を手持ちのエキエル版と見比べてみた。

 ドイツの2つ版はフランス初版とそれをショパンが訂正した再版を底本としている。他方、エキエル版が採用したのはドイツ初版とそのために作曲家が用意した浄書譜だ。そして、両者の間には音や記号の違いがいろいろと見られる。

 ところで、これまでに出版されてきた同作品の種々の楽譜はドイツ初版(と作曲者の自筆譜)が元になっていたようだ(ドビュッシーが編集した楽譜でさえ!)。というのも、これまで自分が耳にした演奏はそこでの音と一致しているからだ。それだけに、今回ヘンレ版などで知った違いには驚かされることが少なくない。

 そのヘンレ版には面白い付録がある。それは何とドイツ初版の元になった自筆譜に基づく楽譜だ。昔の校訂版ならば両者から「いいとこどり」として1つの楽譜をつくりあげていたところだろうが(パデレフスキ版や以前のヘンレ版ショパン楽譜などのように)、今やそういうわけにはいかない(とヘンレ版の編者ミューレマンも述べている)。そこで利用者に1つの資料として提供することにしたわけだろう。それをどう利用するかは楽譜の読み手次第。もちろん、それは本体の楽譜についても言えることだが。

 それにしても、このところショパン作品への愛の深まりを感じている。件のソナタに限らず、種々の作品の譜面を読み返し、音を鍵盤上で探っているのだが、以前には気づかなかった点やいっそう面白く感じられるようになった点がいろいろと見つかる。これは何年か冷却期間を置いたからかもしれない(このショパンに限らず、自分が本当に好きな作曲家の作品の「鮮度」を保ち、長くつきあっていく上で、そうした期間は私には欠かせない)。

 

2025年5月24日土曜日

いや、もしかしたら……

  以前、ショパンの第3ソナタのベーレンライター版を話題にした:https://kenmusica.blogspot.com/2025/02/blog-post_4.html。その中で「たぶん、この『元』ヴァリアントが『本文』に昇格することはないかもしれない」と述べたが、今は「いや、もしかしたら……」と思っている。

 きっかけはヘンレ社から2023年に出ていた同曲の楽譜を見たからだ(恥ずかしながら最近、その存在に気づいた)。そこではまさにベーレンライター版と同様な処理がなされていたのである(次の頁で試し読みができる:https://www.henle.de/de/Klaviersonate-h-moll-op.-58/HN-871)。いや、これには驚いた。

そこで気になるのが、新批判校訂版を刊行中のピーターズ社がいずれ出すであろうこのソナタの楽譜だ。もし、それがヘンレやベーレンライターの側につくとすれば……。これまでの演奏の伝統があるので、そう簡単には件の箇所を皆が新本文で弾くようになることはないだろうが(通称「別れの曲」のある箇所のように)、長期的にはどうなるかわかったものではない。

 もちろん、たとえこの新しい版が主流になったとしても、従来の版が誤っているということではない。それがショパンが書いたものに基づいているのは確かなのだから。だが、それはそれとして、こうした事態に遭遇すると、SFで言われる「パラレル・ワールド」を目の当たりにさせられているような気がして面白い(この場合、件の箇所のどちらの稿を採るかで、世界は異なる2つのものに分岐することになるわけだ)。

 

 ところで、ジム・サムスンは『ショパン 孤高の創造者』(拙訳、春秋社、2012年。品切れで重版未定。たぶん、このまま姿を消すことになろう)第10章でショパンの出版譜について論じる中でヘンレ版も批判していたが、それは古い版、つまり、エーヴァルト・ツィマーマン編集のもののことである。同書の原典が書かれた時点ではその版しかなかったのだが、その後、別の編者たちによる新しい版が出だした(まだすべてが入れ替わっているわけではないので、同社のショパン楽譜を利用する方は要注意)。そして、その中の1つ『バラード集』(ノルベルト・ミューレマン編集)を見る限りでは、それはサムスンの批判を免れるものになっていると思われる(このことは同訳書の訳註で触れるべきことであったと反省している)。

 そのヘンレ社の『バラード集』は2008年に出版されているが、これを2006年刊のピーターズ社 のサムスン編集版と見比べると面白い。というのも、両者が「本文」に選んだ稿が異なっており、細部に違いが少なからずあるからだ。私個人の好みでは、第3バラードに関してはピーターズ版を採りたいが、ヘンレ版にもいろいろと教わるところがある。

 エキエル版が立派なものであるのは確かだが、それが「ファイナル・アンサー」だというわけではない(そもそも、そのようものは誰の手でもつくりようがないわけだが……)。

2025年5月22日木曜日

メモ(146)

  日本語は概ね「口先」で発音される。のどをしかと開いて奥から声を出す諸外国語の発音とは大違いだ(もちろん、そのどちらがよいとか悪いとかいう話ではない)。

 すると、この点でも日本人が演奏する西洋音楽は何かしら影響を受けているのではなかろうか(専門的な訓練を積んだ声楽家はそれを免れているだろうが)。

 

 昨日、夜にラジオをつけると、シベリウスの第2交響曲が聞こえてきた。大好きな曲なのでそのまま聴き続ける。すると、これまで馴染んできた演奏解釈とはかなり異なっているようだった。何とも軽やかで風通しがよいのである。「なるほど、こんなふうにもできるのだなあ」ととても面白く思った(演奏はエサ・ペッカ・サロネン指揮のフィンランド放送交響楽団)。そうした多様な営巣解釈を許容するのが「名曲」というものであろうか。

2025年5月20日火曜日

「美しい」でよいのか?

  ゲーテの『ファウスト』中の名文句に、「止まれ、お前はいかにも美しい(du bist so schön!)から」(森鷗外の訳。この「お前」はある「瞬間」に対して言われているものなので、「止まれ」の前に「時よ」などといった語が補われることが多い)というものがある。この台詞自体が「美しい」ものなので、元の文脈から切り離して使いたくなるようなものだ。

 とはいえ、私はその中の「美しい」という訳語にずっと違和感を覚え続けてきた。なるほど、schönという語の第一義は「美しい」だし、素直にそう訳すとまことに詩的な感じがする。が、この場合には「すばらしい」と訳す方が適切なような気がしてならない。訳さなければこの語の多義性は問題にはならないわけだが、訳すとなると最適な言葉を選ばないわけにはいくまい。それゆえ、「美しい」という訳語がいかに美しくはあっても、私ならば採らない。野暮だと言われるのを承知の上で。

2025年5月15日木曜日

「まさに、この一曲の中にすべてがある」

  「まさに、この一曲の中にすべてがあるんだ。こんなにも少ない素材で、ここまで完璧な結果を引き出せるんだからね」――これはラヴェルがある作品を評した言葉である(マニュエル・ロザンタール『ラヴェル――その素顔と音楽論』(伊藤制子・訳)、春秋社、1998年、74頁)。その作品とはサン=サーンスの第5ピアノ協奏曲。スコアを読み、演奏を聴いてみれば、ラヴェルの言うことがよく理解できるはずだ(https://www.youtube.com/watch?v=OVZcDkJ3-bQ)。

 ラヴェル自身のピアノ協奏曲は明らかにこのサン=サーンスの曲の延長線上にあるものであり、もっと遡ればモーツァルトに行き着く。それゆえ、ラヴェルとモーツァルトのピアノ協奏曲を賞賛しているのにもかかわらずサン=サーンスを俗悪だなどと非難するだけの人(たとえば、ある時期の吉田秀和)は、たぶん、前二者の音楽のある重要な一面を聴き落としていたのだろう。

 それはさておき、今日、随分久しぶりにこの第5協奏曲をスコアを眺めつつ聴いてみたが、全く無駄のない音遣いとそこで繰り広げられる遊びにはただただ感服させられるばかり。のみならず、このところいろいろあって曇りがちだった気分が晴れやかなものに替わっていくのを感じた。いや、まことにすばらしい音楽である。「現代の音楽」にもこうしたシンプルで胸を打つものがあればなあ……。

2025年5月11日日曜日

「1970大阪万博のサウンドスケープ」

  今日のNHK-FM「現代の音楽」は「1970大阪万博のサウンドスケープ(1) 未来都市へようこそ!」というもの(https://www.nhk.jp/p/rs/6J686W68QL/episode/re/ZPPW4P5W7W/)で、これは面白かった(題材の勝利!)。こうしたものをその場で体験できた人たちがつくづくうらやましい(私は当時4歳になる年だったので、当然、それはかなわなかった。いちおう、父親に連れられて万博に行ってきたということだが、ほとんど何も覚えていない)。

 伝聞形にせよこのあまりに輝かしいExpo 1970のことを知っているものだから、現在のExpo 2025には全く出かける気がしない。「もはや、そのようなものを行う時代ではない」と思うからでもある。

 とはいえ、それに出かけたい人のことをとやかく言うつもりはない。試しに大学の学生に尋ねてみると、皆、行くつもりだとのこと。なので、私はその感想を聞かせてもらうのを楽しみにしている(なお、私は学生には旧大阪万博の「太陽の塔」を見に行くことを強く勧めている。私も数年前に出かけてきたが、すばらしい体験だった。塔内では松村禎三の《祖霊祈祷》――最初に触れた番組でも取り上げられていた音楽――が流されており、気分を大いに高めてくれる。まだ行ったことのない方は是非、お試しあれ)。

2025年5月10日土曜日

メモ(145)

  西洋音楽の作曲技法を用いつつも伝統邦楽の流儀も視野に入れた、比較的大きな管弦楽とベルカントを捨てて日本語の美点を活かした歌唱法による「歌劇」(≒オペラ。あるいは、≠オペラ)を夢見てはいけないだろうか?

2025年5月7日水曜日

ベルクと武満

  このところなぜかアルバン・ベルクの音楽に心惹かれている。今日も《ルル組曲》をスコアを眺めつつ聴いたが、ふと、そこに武満徹の音楽がダブって見えた。そういえば、彼はベルクをかなり好んでいたとのことだが、今更ながら「なるほど」と納得した次第。

 武満作品のうち、とりわけ80年代以降のものに「ベルク色」がかなり濃く感じられる。もちろん、それはたんなる真似ではなく、武満独自の表現になっている。もっとも、それが私はどうしても好きになれない(それ以前の武満作品は愛聴している)。お手本のベルク作品は心穏やかに聴けるのに……。

 が、このベルクとて以前はそうではなかった。ということは、もしかしたら、いずれ80年代以降の武満作品も楽しめるときがやってくるのかもしれない(が、ベルクの音楽は対位法によって立体的であるのに対し、武満の音楽には対位法はほとんどなく平面的――これは「欠点」ではなく、「持ち味」――である。表面の響きが似ているところがあるにしても、音楽の実質は随分異なっているわけだ)。

2025年5月3日土曜日

今年はショパン・コンクールの年だとか

  今年はショパン・コンクールの年だとか。私はそんなことには微塵も興味がないので全く忘れていた。が、妻がたまたまその予備予選の動画を見つけ、私に教えてくれたのである。そこで、自分でも少しは演奏を聴いてみたが、やはり興味はわかない。コンクールの時代はとっくに終わっているし、そもそも「減点法」のコンクールで真の才能が(ごく稀な場合を除き)そうそう発掘できるはずもないので、「何ともご苦労なことだ」としか思えない(いや、これは些か辛辣すぎる物言いであった。コンクールにはこれから世に出ようとする若者に1つのチャンスを与えるという意義があることは私も十分に認めてもいる。とはいえ、そのチャンスの価値は昔よりは格段に下がってきているのもまた確かだろう。この点についてはレコード産業の栄枯盛衰も合わせて考える必要があろう。なお、コンクールというものに対する批判の1つとして、たとえば次のものを参照されたい:https://research.piano.or.jp/series/pandc/index.html)。

 さて、その予備予選の出場者の内訳だが、アジア勢の数字が異様に大いのに今更ながらに驚く。とりわけ中国は参加者166人中65人もいる(道理で、いつ動画を観ても中国人の演奏にお目にかかれたわけだ)。ついで、日本の(二重国籍者を含めて)23人、韓国の21人と続く(https://www.chopinist.net/chopin_competition/no19_preliminary.html)。さらに他のアジア諸国の参加者7人を加えれば、これだけで何と全体の69%を占めていることになる。

 中国人参加者の多さを見ると、かつての日本の「ピアノ熱」が思い起こされる。それは今やすっかり醒めてしまったものだが、ある時期から中国がその「熱」に罹ってしまったようだ(そのため、日本で不要になった中古ピアノは中国向けの重要な商品となった)。これがいつまでどのようなかたちで続くのか、少なからず興味が持たれるところだ。

 アジア勢の熱の高さに対して、欧米諸国はどうだろうか。ショパンの母国ポーランドの9人が参加者数としてはもっとも多いが、その程度であり、他の国の参加者はもっと少ない。もしかしたら、アジア勢には「参加することに意義がある」とする気風があるのだろうか? その点、欧米ではコンクールというもの(のみならず、西洋芸術音楽自体)に対する興味関心が薄れてきているように見える。

 ともあれ、今はいろいろな意味で西洋芸術音楽は大転換期にあると思われる。そして、これを乗り切るには従来の価値観に縛られていては難しかろう。が、西洋芸術音楽のこれまでの蓄積は真のイノヴェィションを成し遂げる才能の持ち主を生み出すかもしれない。

 

2025年4月30日水曜日

芥川也寸志の名曲《コンチェルト・オスティナート》

  今年は芥川也寸志の生誕100年。彼の作品はおそらく、これからも演奏され、聴かれ続けることになるだろう。

 芥川のある時期までの作品は「お手本」がはっきりわかる体のものだ。たとえば、出世作、《交響管弦楽のための音楽》(1950)は伊福部昭の《交響譚詩》(1943)によく似ているし、《交響曲第1番》(1954/55)はプロコフィエフとショスタコーヴィチの「第5交響曲」があまりにストレートに反映されている箇所がいろいろ目に付く。

 だが、それにもかかわらず、そうした作品からも芥川の個性をしかと聴き取ることができる。そして、私はお手本の《交響譚詩》よりも《交響管弦楽のための音楽》のシャープな作風を愛するし、《交響曲第1番》も嫌いにはなれない。

 自分がもっとも好む芥川の作品はチェロとオーケストラのための《コンチェルト・オスティナート》(1969)だ(https://www.youtube.com/watch?v=A6YabG166SA)。これは本当に名曲だと思う。そして、それだけに、この作品以降、芥川の筆が鈍ってしまったことを残念に思わずにはいられない。なるほど、彼は作曲以外の「社会貢献」をいろいろと行い、それらはしかるべき成果を上げてはいるのだが、やはりこれほどの作曲家にはもっともっと作品を書いて欲しかった。

2025年4月29日火曜日

伊福部昭の作品で私が(今のところ)唯一好むもの

  数日前まで木部与巴仁『伊福部昭の音楽史』(春秋社、2014年)を再読していた。すると、急に伊福部の音楽が聴きたくなってきた。実のところ(このブログですでに述べたことだが)私はそれを好んでいないのだが、それにもかかわらず「ちょっと聴いてみようか」という気を起こさせたのだから、同書は名著だと言えよう。

 が、好きでもない作曲家ゆえに手持ちのCD1枚しかなかった(Naxosレィベルから出ているもの)。しかも、その演奏が妙に「ぬるい」ものだから困った。そこで思い切って新たにCDを購うことに。あてずっぽうに選んだわけではない。昔々聴いて「おっ、これはなかなかいいじゃないか」と思った作品・演奏が収められたものが出ているので、迷うことなくそれを選ぶ。フォンテックから出ている2枚組のもの(ただし、以前聴いたときには1枚もので、他の収録曲も異なっていた)で、その中の《リトミカ・オスティナータ》が目当てだったのである。この曲は手持ちのCDにも収められているのだが、全く別の音楽に聞こえるほどに演奏が「温い」。その点、今回購ったCDの演奏は格段にすばらしいものだと記憶していた。

 現物が手元に届くと、真っ先にそれを聴いた。そして、自分の記憶が間違っていなかったことが確認できた。井上道義指揮の東京交響楽団、ピアノ独奏は藤井一興のその演奏はかつて「伊福部嫌い」だった私を唸らせたものであり、今また新たな感動をもたらすものだったのである。いや、まことにすばらしい(この録音はYouTubeにはあげられていない。同じ指揮者と楽団による、だが、独奏者が異なる演奏はあげられていたので参考までに。だが、これは私にとっては「まあまあ」の演奏でしかない。ちゃんとした演奏であるのは間違いないにしても:https://www.youtube.com/watch?v=nle0msQLZ0M)。

 さて、件のCDには他にも何曲か伊福部作品が収められているので聴いてみた。ところが、それらにはさほど感動を覚えない。のみならず、どれも似たり寄ったりの「同工異曲」にしか聞こえず、しかも、その音調がまた私の好みに合わないのだ。それらが立派な音楽だということはわかるし、それに熱狂する人たちがいても当然だとは思う。が、その「人たち」の中に自分は今のところ含まれていない。残念。

 私には伊福部よりも、むしろ彼の友人にしてよきライヴァルだった早坂文雄の音楽の方が格段に好ましい。伊福部は早坂の最晩年の作品《ユーカラ》を「線の細い音楽」(前掲書、221頁)だと評するが、私にはそうは感じられない。そこには伊福部のどこか暴力的で押しつけがましい音楽にはない繊細さがあり美しさがある。もちろん、これはあくまでも私個人の感じ方にすぎないので、伊福部ファンの方はどうかご寛恕のほどを。今のところ1曲は心から感動を覚える作品があるのだから、いずれ伊福部の他の作品も楽しめる日が私にも来ないとも限らない。そして、できればそうなりますように。

2025年4月25日金曜日

昨晩も文楽へ

  昨晩も文楽を観に行ってきた。演目は『義経千本桜』の続きで四段目 「道行初音旅」「河連法眼館の段」である。今回もまた大興奮、かつ、大感激だった。というわけで、今から秋の公演が楽しみでならない。

 ところで、客席の入りはさほどよくなかった。先週は満員だったのに。しかも、観客の中には若い人は見当たらないのだ。「こんなにも面白いのに」と残念に思うが、かくいう私自身その面白さに気づいたのは近年のことであるから、人のことはいえない。が、それはそれとして、若い人にこそ文楽を観、楽しんでもらいたいものだ。

 ただ、そのためには「新作」も必要だろう。実際そうしたものは時折つくられているようだが、もう少し積極的にやってもよいのではなかろうか。そして、私もそうした新作を観てみたい。

2025年4月22日火曜日

軽やかなプロコフィエフ

  ラジオをつけるとプロコフィエフの第2交響曲をやっていた。が、その演奏の軽やかさと「風通しの良さ」に驚かされる。これまで自分が聴いてきた録音(実演で触れる機会は残念ながらまだ得られていない。いずれ、是非!)ではもっと重々しく、かつ、いかにも音がぎっしり詰まっているような感じで演奏されていたからだ。

 今日聴いている演奏とこれまで聴いてきた演奏のどちらか一方が正しく、他方が誤っているというのではない。どちらにもそれなりに一理ある。そして、「名曲」というものは多様な演奏解釈に耐えうるものだ(さもなくば、長い年月の間に移り変わる演奏モードの変化を乗り越えてレパートリーとして残るはずもない)。が、それはそれとして、この軽やかなプロコフィエフの第2に私はとても心惹かれる。同じメンバーが同じ作曲家の第7を演奏したらどうなるのだろう? できれば聴いてみたいものだ。

 

 清水脩(1911-86)の随筆集『書き落した楽章』(1959年、カワイ楽譜)を再読しているが、作曲における日本語の扱いについて論じたものがとりわけ面白い。以前はこの問題には関心があまりなかったので読み流していたのだが、今や「関心大あり」なので。

この問題について清水や同世代の他の作曲家は「伝統邦楽」に言及し、そこから活かせるべきものは活かそうとしているようなのだが、もっと下の世代の作曲家の場合どうなのだろう? この点はいずれきちんと調べてみたいと思っている。

2025年4月18日金曜日

『義経千本桜』の三段目を観(聴き)に国立文楽劇場へ

  昨日は『義経千本桜』(https://www2.ntj.jac.go.jp/dglib/contents/learn/exp3/exp_new/index.html)の三段目、すなわち、「椎の木の段」「小金吾討死の段」すしやの段」を観(聴き)に国立文楽劇場へ(https://www.ntj.jac.go.jp/assets/files/02_koen/bunraku/2024/R0704haiyaku.pdf)。期待を遙かに超える面白さであり、最後の「鮓屋の段」では深い感動を味わえた。

 文楽の筋書きというのはなかなかに複雑なのだが、いざ観はじめると、そんなことは気にならなくなる。とにかく太夫、三味線、そして人形が織りなす劇に引き込まれるばかり。そこには笑いあり、涙あり、人情あり、あっと驚く展開あり、その他諸々、さまざまな要素が実に巧みに1つのドラマに仕立てられている。だから、観て(聴いて)いて少しもだれることなく、3時間弱の上演時間はまことに充実したものだった。

 私は文楽の全くの初心者なので見落としや聴き落としは多々あろうが、それにも関わらずここまで楽しめ、感動できるのは、やはりこの文楽という芸能自体の面白さ、そして、演者の芸の見事さによるものだろう。今のところそれを言語化できるだけの経験が自分にはないのでここであれこれ述べられないのが残念。文楽をもっと若い頃に知ることができていればなあ……。いや、今からでも遅くはない。むしろ、この歳になってこうしたものに出会えたことに感謝である。

 

 それにしても、文楽の義太夫節への興味が深まるにつれ、日本語による西洋音楽の「歌」への関心も強まってくる。後者はまだまだ日本独自の様式を確立しているようには思えないが、逆に言えば、これからまだまだいろいろな可能性があるということでもある。というわけで、現代の作曲家の「歌」の創作にいっそうの期待をしたいところだ。

 

2025年4月15日火曜日

ヴァイオリンとギターによるヴィヴァルディの《四季》

  今朝、NHK-FMでヴィヴァルディの《四季》のヴァイオリンとギターによる二重奏で聴いた。これはなかなかに新鮮で面白かった。とはいえ、今やこうした「耳にタコができる」ほどになっている「名曲」については、今回のような目新しい編曲か、よほど斬新な演奏解釈によるかでもしなければ楽しめない(ゆえに、「名曲」で埋め尽くされている演奏会にはほとんど行かなくなってしまった)。そして、それはおそらく私に限ったことではあるまい。

 ところで、今や音大は「音楽教室」運営法まで教授する時代だが、演奏会のプログラムの組み立てや演奏会自体の計画立案・運営法を教える授業が開講されているところはあるのだろうか? 「アート・マネジメント」ということが取りざたされる昨今、クラシック音楽の分野でももっと積極的にこの点が、音楽家個人のレヴェルで追求されてしかるべきだろう(さもなくば、クラシック音楽の未来は暗いと言わざるを得ない)。その点で大学のできること、やるべきことはまだまだあると思う。

 

 世を賑わしていることに一切言及しないという批判の仕方もある。自分が馬鹿馬鹿しく思うことをわざわざ話題にする必要もあるまい。

2025年4月10日木曜日

ラヴェル恐るべし

  今年はラヴェル・イヤー。というわけで、このところ彼のピアノ曲をあれこれ見直している。楽譜を読み、録音をあれこれ聴き、そして、自分でもピアノで音を拾ってみる。それをきちんと弾くだけのテクニックは私にはないのだが、それでも実際にピアノで音を出してみると、やはりそれでしかわからないことに気づかされる。

 今日は《夜のガスパール》第3曲〈スカルボ〉を超低速で、しかも、しばしば止まりながらピアノで音にしてみた。すると、この曲の得も言われぬ不気味さが何ともリアルに実感される。とともに、ピアノ書法の斬新さにも驚かされた。この曲のかくも不思議な響きは、その音選びだけではなく、楽器の使い方の産物でもあったわけだ。ともあれ、たどたどしくピアノで音を拾ってみるだけでも十分にスリルとサスペンスを味わう(とともに、この作品のメシアンへの影響の大きさも実感する)ことができた(どころか、このあまりにおどろおどろしい響きを味わうには下手でも自分で音を出してみるのが最良の手段かもしれない)。ラヴェル恐るべしである。

 

 今朝、FMで次の曲を聴いた:https://www.youtube.com/watch?v=lex6nhW3etA

魅力的な瞬間も少なからずあるのだが、やはりどこかチープな感じがぬぐいきれない。誰もついてこないような「前衛」音楽を「現代の音楽」だと言われても困るが、さりとて、このピアノ協奏曲のようなものがそれに代わるものだと言われても(少なくとも私には)受け入れがたい。もちろん、こうした曲を好む人は少なからずいるだろうし、それはそれでけっこうなことだとは思うが。

2025年4月7日月曜日

ベリオの音楽は楽しい。だが……

  昨日のNHK-FM「現代の音楽」では今年生誕100年のルチアーノ・ベリオが取り上げられていた。彼の作品を聴くのは随分久しぶりのことだったが、どれもこれも実に楽しい。やはりなかなかの才人だと改めて認識した次第。

 もっとも、ベリオの音楽はあくまでも「過去」のものとして楽しめるものであって、同じようなことを現在やられてもしらけるだけである。それゆえ、これが「現代の音楽」という番組で取り上げられることには些か違和感も覚えた。「現代音楽 100年のレガシー」と銘打たれた企画の1コマだとしてもだ。しかも、その作曲家の選択も過去に確立された評価に基づくものであり、それを見直そうとしないのも感心できない。通り一辺倒の曲目解説も相俟って、お世辞にも出来がよいとは言えない番組づくりだ。

もちろん、このような企画が毎月あるというのは、それだけ本当の「現代の音楽」で取り上げるものが多くはないという現状を反映したものなのではあろう。が、それでもいろいろと「悪あがき」のしようはあるのではないか。というわけで、この際、番組の担当を若手の音楽家(作曲家だけではなく演奏家も含む)に「任期付き」(というのも、同じ人が長く続けるのとマンネリになってしまうからだ)で任せてみればどうだろうか。たぶん、今よりもずっとアクチュアルで聴き応えのある番組になることだろう。

 

2025年4月4日金曜日

日本語のあいまいさ

  たまたま目にしたテレビ・ドラマ(ただし、私はPCで見ている)の再放送が実に面白い。それは『日本人の知らない日本語』(読売テレビ、2009年。原作は同題のコミック。エッセイだとか。これもそのうちに是非とも読んでみたい)。舞台は在留外国人向けの日本語学校で、「日本語のあいまいさ」がさまざまな角度から話題にされており、それが笑いをもたらすとともに、母語への反省を促してくれる。普段は気にならないのだが、こうしてドラマで見てみると、改めて日本語という言語の表現のあいまいさには驚かされる(昔言われたような「日本語は欧米諸語に比べて非論理的だ」ということはないにしても、表現にあいまいさがあるのは否定できまい)。

 そのドラマのある回では、そうした曖昧さ(言い換えれば、多種多様な婉曲表現)が日本の「和」の精神と結びつけられていたが、なるほど、そうかもしれない。だが、それが本当だとすれば、この国が現在の苦境を脱することはかなり難しそうだ。というのも、日本語を話している限りは「和」とは縁が切れそうにもなく、その「和」は批判を封じ込め、根本的なイノヴェーションを阻むものだからだ。この国で大変革が起こるのが得てして外圧によるものだというのも、こうした「和」の精神とそれを支える日本語の力を日本人が自力ではどうにもできないからだろうか。もちろん、日本語のあいまいな表現や「和」にもいろいろ美点があるのは重々承知しているが、今はそれに批判的な眼差しを向ける必要があるように思われる。

 ところで、日本語のあいまいさと「和」の精神は日本語話者による西洋音楽の作曲や演奏にも少なからず良くも悪くも影響を及ぼしているのではなかろうか。この点は日本語の発音の問題とともに探っていみれば面白いことになりそうだ。

2025年4月1日火曜日

ブゾーニ没後2世紀目の始まりの年

  今日41日はフェルッチョ・ブゾーニ(1866-1924)の誕生日。昨年は没後100年だったので、今年は101年目。没後2世紀目の始まりの年だというわけだ(亡くなった日付けを起点をすべきだが、今日誕生日なのでこのことを話題にした)。没後しばらくしてほぼ「忘れられた」作曲家になってしまったブゾーニの評価は1980年代から少しずつ回復し始めていったものの、本格的な受容はこれからだろう。

 日本でも『音楽美学の新しい草案』の新訳や『音楽の一元性について』の訳がこれから出されることだろう。が、それだけではなく「バッハ=ブゾーニ版」(とりわけ《平均律クラヴィーア曲集》)の翻訳も望まれる。そこでは「作曲家ブゾーニ」と「演奏家ブゾーニ」の絶妙の結びつきが見られるからだ(ちなみに、《平均律》第1巻ではピアノ演奏技法、そして、第2巻は作曲技法が深く探求されている)。

 

 今日NHK-FMを聴いていると、大バッハのモテット《イエスはわが喜び》が取り上げられていた。これは大好きな曲なのでうれしい。演奏はベルリンRIAS室内合唱団。アンコールは《おぼろ月夜》だったが、「ドイツ語的」日本語歌唱による美しい歌を楽しめた。

2025年3月30日日曜日

今日のNHK-FM「現代の音楽」は

  NHK-FM「現代の音楽」は2024年度に亡くなった人特集だった(ところで、私はこの番組のオープニング曲――スティーヴ・ライヒのもの――が大嫌いで、別なものに替えて欲しいと思っている)。そのほとんどが長命で仕事を十分にやり尽くした人たちだったが、1人だけ(今日の平均余命からすれば)若い人がいた。それは作曲家・ピアニストの藤井一興。氏は19551月生まれで今年の1月に亡くなったというから、その時点で70歳だったことになる。まだまだやり残した仕事があったに違いない。私も一度は氏の実演を聴いてみたかった。

 

 ここ12日、持ち物の整理整頓をしていた。局所的に混沌状態を呈していたので、すっきりさせたかったのである。自分ももはや若くはなく、長期ではなく短期で物事の計画を立てて処理すべき年齢だ(来年で60)。急に長年の生活様式を変えるのは難しいにしても、ここ数年のうちにいろいろな意味でいずれ来るはずの時に備えておかねばなるまい。

 

(なお、当分の間、このブログの更新を以前のように散発的なものに戻します)