昔々、チャイコフスキーのピアノ曲集《四季》について次のように書いたことがある――この「四季」の楽譜を眺めていると、たんなるピアノ曲ではなく、あたかも管弦楽曲を巧みにピアノ用に編曲したもののように見えてくる。たとえば、音域の異なる楽器の間で対話をし、ソロの受け渡しをしているかのようなパッセージや、しだいに音の厚みが増して総奏に至るかのような箇所が随所に見られる。音楽の骨格そのものはシンプルなのに、その響きは極めて立体的なのだ。それはいかにも管弦楽曲作家チャイコフスキーならではのピアノ曲であり、ここでピアノは「100の楽器に匹敵する」[アントン・ルビンシテインの言葉]だけのものを存分に示すことができるだろう――と。
これはこの曲集に限らず、チャイコフスキーの少なからぬピアノ曲について言えることだろう。残念ながらごく限られたものしか取り上げられないようだが、チャイコフスキーのピアノ曲はもっといろいろ弾かれればよいと思う。「ロシア・ソヴィエト」ものを取り上げるピアニストは少なくないが、なぜかこのチャイコフスキーやその師アントン・ルビンシテインなどの、あるいは他の作曲家たちの優れた興味深い作品を素通りして(ムソルグスキーの《展覧会の絵》はよく弾かれるし、近年、バラーキレフに目が向けられるようになったとはいえ)ラフマニノフ、スクリャービンその他のごく限られた作品が弾かれる傾向がある。実にもったいない。ともあれ、今後に期待しよう。