卵から孵ったひな鳥は最初に見たものを親だと思い込む――とはよく言われる(ただし、これが本当かどうかは私は知らない)が、ある音楽作品については最初に聴いた(あるいは、聴き込んだ)演奏が「基準」になってしまうということはあるかもしれない(私に取ってはサンソン・フランソワのショパンが長らくそうだった)。とりわけ、あまり演奏されないマイナーな作品についてはその可能性は高い。
たとえば、まずは次の録音を聴かれたい:https://www.youtube.com/watch?v=GexekwlW8Uc。これは(昨日少し触れた)アントン・ルビンシテイン(1829-94)の若き日の名作、ピアノ・ソナタ第1番作品12(1847-48)の第4楽章である。もし、これによってこの曲のイメージができてしまった人が次の録音を聴いたらどう感じるだろうか(全楽章を収めたものなので、第4楽章のところを見つけ出して聴かれたい):https://www.youtube.com/watch?v=YQ2JPtIP0Sw。たぶん、何かもの足りなさを覚えるのではないだろうか。だが、こちらを最初に聴く人にとってはそれほど悪い演奏だというわけではないかもしれない(かく言う私にとっては、実はどちらも物足りない。私がこの曲を初めて聴いたのは忘れもしない、1982年、中村(現在は「金澤」)攝さんのリサイタルでのことで、何とも強烈な演奏だった。そして、それが基準になってしまったので、上の2つはそれほど悪い演奏だとは思わないものの、何か物足りないのだ。もちろん、だからといって、自分のそうした感覚を絶対視するつもりはない)。
こうした「出会い」というのは、何というか「ご縁」だとしか言いようがない。どの作品に、どんな演奏で、いつ、どこで出会うかは人によってさまざまであり、そうしたことの積み重ねが各人で異なる作品観、演奏観、音楽観の形成に大なり小なり関わっている。考えてみれば面白いことだと思う。