昔々、「『名曲決定盤』の思想」という著作を構想したことがある――西洋音楽を移入して日も浅い頃の日本ではハードとソフトの両面で環境が整っていないものだから、音楽を聴こうとすれば、多くの人はレコード(のちには放送も)に頼るしかなかった。そして、それはたんなる「代用品」ではなく、そもそもほとんど実演を聴くことが叶わない日本の聴き手にとっては音楽体験の重要な核をなすものであったろう。だが、それは同時に日本独自の西洋音楽受容・理解の型のようなものをも生み出さなかっただろうか? そして、その際に聴き手に(価値判断を含む)種々の情報を提供し、(良くも悪くも)影響を与えたのが「評論家」であったろう――。こうした見立ての下、日本の「レコード評論」の栄枯盛衰を軸に日本の洋楽受容の一面を論じられないかと私は考えたわけだ(なお、『名曲決定盤』とは日本のレコード評論草創期の大物、「あらえびす」の著書名。そして、「あらえびす」とは『銭形平次捕物控』の作者たる野村胡堂(1882-1963)の音楽評論家としての筆名)。が、今や自分の関心は別なところにあるので、この構想を取り上げ直す意志も気力もない。とはいえ、問題としてはそれなりに面白いと思うので、同様な問題に取り組んでくれる人の登場に期待したい。