20世紀に作曲家と演奏家が(概ね)分業体制になってしまったのち、「名演奏家」と呼ばれる人たちのために書かれた作品がどれほどあり、そして、現在どれほどがレパートリーとして生き残っているだろうか。これは一度きちんと調べてみたらよいと思う。
とりわけ、いわゆる「現代音楽」作品の場合、その道の(クラシック音楽業界ではどちらかといえば)マイナー(だが、「現代音楽」業界では著名)な演奏家のために書かれた作品は多かろう。だが、多くの聴衆を持つスター演奏家が同時代の作品を取り上げることはさほど多くはなく(その意味でギドン・クレーメルは希有な存在である。あれだけメジャーな演奏家でありながら、その彼のために新作がいろいろと書かれ、そして、そうした作品を本人のみならず他の演奏家も取り上げえもいるのだから)、すると、作曲家がそうした演奏家のために書くということがあまりないのも当然といえば当然。
だが、反面、作曲家も「なぜ、自分の作品が取り上げられないのか」をよくよく考えてしかるべきであろう。たぶん、そこに「現代音楽」の行き詰まりを打開するための1つのヒントがあるように思われる。
今日は先代の愛犬セラフィンの命日。7年前の暑い日のことだった。 肉体は消滅しても、その存在が私(や家族)の心の中から消えることは決してないだろう。