欧米など外国のキリスト教徒の作曲家が仏教の儀式用の音楽を書くということはまずないだろう。ところが昨日話題にした團伊玖磨はたとえば東大寺の式典のための音楽を書く一方、天理教のためのカンタータなども書いている。
これは何も團に限ったことではなく、自分の信仰を抜きにして宗教音楽を書く作曲家は日本にはこれまでにもいた(團の師、山田耕筰も天理教のためのカンタータや交響詩をつくっている)し、今もいるようだ(私はそのことを非難したいのではない。ただ、事実としてそういうことがあると述べているにすぎない。なお、調べてみたら、池辺晋一郎も天理教音楽を書いていた。どんなものか聴いてみたいものだ)。依頼があれば自由業者たる作曲家はよほどのことがない限り断らないにしても、このことについて信仰を持つ外国人はどう感じるだろうか? また、その宗教の信仰もないのにそのための作品を書いている作曲家にも作曲の過程を尋ねてみたい。これもまた「西洋音楽の日本化」の一コマなのであろうか。
なお、日本人でも己の信仰に基づいて宗教曲を書いている作曲家も少なからずいる。やはりキリスト教信者のものが目につくが、仏教の諸宗派、その他の宗教でも「信者による創作」はなされている。上記の「非信者による宗教曲」も含め、一度詳しく調べてみたら、いろいろと面白いことがわかるのではないか。