2024年11月30日土曜日

グラズノフの弦楽四重奏曲

  このところアレクサンドル・グラズノフ(1865-1936)の弦楽四重奏曲を楽しんでいる。第1番は「作品1」で1881-82年の作。つまり、彼が167歳の頃に書かれたものだが、その完成度の高さと内容の豊かさにはただただ驚かされる(https://www.youtube.com/watch?v=7lYRlTE-rSI&list=PL_YjoiD93vYNUNapZ36NJo7UtTXAK3G-z)。そして、最後の第7番は作曲家としての晩年にあたる1930年の作だが、これがまた何とも味わい深い曲だ(https://www.youtube.com/watch?v=6DlFKTH0Euo&list=PL_YjoiD93vYNUNapZ36NJo7UtTXAK3G-z&index=10)。

 一部の音楽家(協奏曲をレパートリーとしているヴァイオリニスト、あるいは、協奏曲や四重奏曲に親しんでいるサクソフォン演奏者)や愛好家を除けば、日本ではグラズノフは今ひとつ影の薄い存在のようだ。が、もっと演奏される機会があってもよいと思う。チャイコフスキーの交響曲(もちろん、それはすばらしい音楽だが……)ばかりなんとかの一つ覚えのように取り上げるのではなく、たまにはグラズノフの交響曲を取り上げるとか、あるいは、ピアニストもラフマニノフやスクリャービンばかりでなく、魅力的な協奏曲やソナタを弾くとかすればよいのに。

 

 Amazon 経由で海外に注文した品が予定日を過ぎても届かない。そこで、やはりAmazonを通して文句を言ったところ、何とそれからようやく発送したようだ。今回だけではない。これまでにも海外の業者のこうした杜撰極まりない対応には何度も苦汁を飲まされてきている。それに比べれば日本の業者はまことに律儀だ。何か問題が生じても即座に的確な対応をしてくれるので、これまで不満を抱いたことは一度もない。こうした美徳がこれからも保たれますように。

2024年11月29日金曜日

メモ(132)

  オルテガ・イ・ガセーが指摘するように、音楽のオブジェ化(という言い方を彼はしなかったが、それに類することを「音楽の聴き方」の問題として述べている)はすでに20世紀前半にはじまっている。そして、これが「現代音楽」の1つの淵源だと考えられる。もし、『黄昏の調べ』を改訂するか、あるいは、別に「現代音楽」に関する本を書くことがあるとすれば(まあ、いずれも可能性は低かろうが)、この点を詳しく論じてみたい。

 

 人間には永遠に掴むことができないが、だからこそ逆に「よき生」のために求め続けるべき「努力目標」のようなもの――それが「真理」というものではなかろうか。

2024年11月28日木曜日

ギーゼキングの無言歌に聴き惚れる

  今や大曲を立派に弾けるピアニストはそれなりにいても、小品を味わい深く聴かせられる人がどれだけいるだろう? ギーゼキングが奏でるメンデルスゾーンの無言歌を聴き、ふと、そんなことを思った。

 ギーゼキングは何でも弾ける人であり、(録音から判断する限り)大曲でも説得力のある演奏をした。が、この人は小品を弾かせても実にうまい。上記のメンデルスゾーンなども、17曲続けて聴いても少しも飽きが来ない。ピアノでまさに「言葉のない歌」を見事に歌いきってみせるのだから(https://www.youtube.com/watch?v=vhm0kWF5aBA)。その芸にはただただ聴き惚れてしまう。そして、昔はそんなピアニストが少なくなかった。

 たとえばジョルジュ・シフラ(1921-94)もまさにそのようなピアニストだった。彼の超絶技巧の演奏ぶりに対しては内容空虚だとの批判もあったようだが、とんでもない。もちろん、彼の芸風にぴったりの作品もあれば、そうでないものもあった。が、あれだけ小品を見事に弾ける人を軽んじてよいとは私は思わない。

2024年11月27日水曜日

メモ(131)

  作曲家の生涯にわたる創作の軌跡を後世の者は「必然」だとみなしがちである。それは最終到達地点からの因果関係によって物事を理解しようとするからだろう。だが、その「地点」とは別のところに進む可能性だってあったはずなのだ。

そうした「実現しなかったものの、もしかしたらそうでありえたかもしれない潜在的な可能性」を「円熟期」以前の作品から読み取ろうとすることで、お馴染みの作曲家の音楽はそれまでとは異なる相貌を現すことになろう。

2024年11月26日火曜日

『ハノン』の面白い(?)版

  いわゆる『ハノン』教則本の面白い(恐ろしい?)版がある。それは音楽之友社から『最新ハノン・ピアノ教本』として出ているものだ(https://www.ongakunotomo.co.jp/catalog/detail.php?id=410810)。そこでは原曲に対して数多の予備練習や派生練習が付されているのだが、これがなかなかにハードなのだ。

この『最新……』は書名に反して明らかに何昔も前の「マニアックな特訓」型の教本であり(原典の『ハノン(アノン)』はそこまでのことは要求していない)、事実、初版は1958年となっている(実のところ、これはドイツでPeters社から出ていた版(Otto Weinreich編)のリプリントなのだが、なぜかそのことが表示されていない)。今でも絶版になっていない(今日も書店にあるのを見た)となると、需要があるということなのだろうか?

 

この「マニアックな特訓」型の教本、言い換えれば、練習自体がほとんど自己目的化してしまったような教本が昔には他にもいろいろあった。それゆえ、こうしたものを題材に面白い(?)研究ができるかもしれない。興味のある方は試みられたい。

2024年11月25日月曜日

メモ(130)

  少し前に「物事の良し悪しと好き嫌いは別次元の事柄」と題した投稿をした。とはいえ、実のところ私は(ウィリアム・ジェイムズ同様)「事実判断」と「価値判断」を完全に切り離すことはできないと考えている。

 にもかかわらず、前述のような文章を書いたのは、自分の価値判断を絶対視することの危険性を述べたかったからだ。言い換えれば、人は自分が変われる可能性を確保しておくべきだと考えたからだ。

 

 メンデルスゾーンのピアノ独奏曲はごく一部の作品を除き、必ずしも人気のあるレパートリーではない。が、それは作品の出来が悪いということではなく、現在のピアニストや聴き手にとって何かしら魅力に欠けるということなのだろう(ちなみに、その演奏に際してははったりやごまかしが全く効かない)。同じことは彼よりも少し前の時代のポスト古典派の作曲家についても言える。すなわち、フンメル、ヴェーバーやチェルニーなどのなどがそうだ。

 とはいえ、いずれ潮目が変わり、彼らの作品がある程度人気を博するときがやってくるかもしれない。

 

 

2024年11月24日日曜日

「生誕130年 武井武雄展 ~幻想の世界へようこそ~」

  予め期待していたものを観たり聴いたりした結果、その期待が満たされたときの喜びは大きい。が、それよりも大きな感動をもたらすのは、全く予期せぬ出会いの方かもしれない。今日もそうした感動を味わってきた。

 その出会いは何かといえば、武井武雄(1894-1983)という自分にとっては全く未知の画家との出会いだ。その展覧会が催されていたのは一宮市の三岸節子記念美術館。元々の目的はこの三岸の絵を観に行くことであり、期待は十分に満たされた。が、同じ美術館で催されていたのが「生誕130年 武井武雄展 ~幻想の世界へようこそ~」という展覧会だったのである(https://www.kyuryudo.co.jp/shopdetail/000000002321/)。

 この武井武雄という人のことは恥ずかしながら全く知らなかった。それだけに何の先入観もなく作品を観ることができたのだが、とにかく、あっという間に引き込まれてしまう。元々は普通の洋画家として出発した人なのだが、やがて「童画」というジャンルを開拓し、独自の世界を築き上げたのみならず、生涯にわたってさまざまなことに挑戦し続けた偉人である。というわけで、その作品と生き様に深い感銘を受けたわけだ。のみならず、私も自分にできることに励まねばと思った(上記の展覧会は実は今日が最終日だったのだが、まさに何かのご縁があったとしか言いようがない)。

2024年11月23日土曜日

アイヴズの自作自演

  アイヴズの作品は演奏者がよほど明確なヴィジョンやイメージを持って臨まないことにはたんなる音の羅列、あるいは混沌に陥ってしまう可能性が多分にある。実際、そうした演奏は少なくないようだ。

そのアイヴズの自作自演の録音がある。それは1つひとつの曲をきちんと弾いたものというよりも、自作を弾き散らしたという類のものなのだが、それでもまことに面白い。そこからは彼が自分の音楽をどのようにとらえているかが、そして、どう演奏されることを望んでいるかがかなりよくわかるように思われるからだ。

録音の数自体はさほど多くはないが、アイヴズが奏でる音楽はまことに生き生きとしており、豊かに響く。中でも《コンコード・ソナタ》の抜粋がいくつか含まれていて興味深い(そのうち第3楽章のみ、すべて弾かれている(https://www.youtube.com/watch?v=HImm9bULDBE))。

2024年11月22日金曜日

メモ(129)

  私はほとんど演奏会には行かず(いろいろな意味でそんな余裕も気力もない)、音楽を聴くといえば自宅でCDやラジオ、あるいはインターネットを利用している(自分が奏でる下手なピアノもそこに含めてもよかろう)。

すると、演奏会に頻繁に出かけつつ、「音楽はやはり生でなければ!」と説く人たちとはおよそ異なる世界に生きていることになる。

とはいえ、その異なる世界同士に全く繋がりがないとは思っていない。やはり、どこかで何かが繋がっていると信じられなければ本など書かないし、こうした文章も綴らない。逆に、私も演奏会によく出かける人たちの文章を(あるときには楽しく、またあるときには何かしら違和感を覚えつつも、とにかく)読んでいるのだから。

人生いろいろである。そして、そう言えるだけの自由が(今のところ)あるということはすばらしいことだ。 

 

ブレンデルが若き日に録音したブゾーニの《対位法幻想曲》を聴いてみたが、なかなかよい演奏だった。本人が思い直してこの録音の再販を認めてくれたことに感謝。

2024年11月21日木曜日

《ドイツ・レクイエム》のピアノ4手用編曲

  ブラームスは自身の管弦楽曲や室内楽曲をピアノ4手、もしくは2台ピアノのために編曲している。それらには原曲とはまた違った味わいがあるし、管弦楽曲からの編曲の場合には原曲の構造がすっきり見通しやすくなるという長所もある。

ところが、それら一連の編曲の中に、1曲だけ、些か不思議なものがある。それは《ドイツ・レクイエム》作品45のピアノ4手用編曲だ。曲名にあるように、これは声楽曲であり、しかもかなり長大である(実はそうした編曲としてはもう1曲、《勝利の歌》作品55があるのだが、こちらはかなりマイナーな曲である)。これをピアノ4手で演奏すれば、音楽の感じはほとんど別物と行ってもよいほどに変わってしまう:https://www.youtube.com/watch?v=5Og9OKzgXGw&list=OLAK5uy_m8TVsLPfLhOHMVyZfKbTXGrwkCscE9MXk

もっとも、作曲当時は今とは異なり、《ドイツ・レクイエム》の実演を耳にできる機会はごく限られていたであろうし、もちろん、録音もない。となれば、連弾編曲版でもよいからこの曲に触れたい思う聴き手にとっては有益なものだったろう。

だが、現在ではわざわざこの曲をピアノ連弾版で聴く必要はあるまいし、そもそも1時間近くそれを聴き続けるのも難しかろう(事実、私は途中で挫折した)。とはいえ、抜粋ならば原曲との違いを楽しめるかもしれない(私も最初の2曲目くらいまでは「異次元体験」を味わえた。

[追記]はじめにリンクした音源は手持ちのCDとは異なるものだったが、その後、同じ音源が見つかったのでそれに差し替えた。この演奏者たちはブラームスの4手ピアノ曲、2台ピアノのための作・編曲すべてを録音しており、演奏もとてもよい。上記「異次元体験」もこの2人の演奏で味わったものだ。それゆえ、第3曲以降も別の機会に試してみよう)。 


2024年11月20日水曜日

「劇伴」に胸の高鳴りを覚える

   今期のテレビ・ドラマで一番のお気に入りはTBSの『海に眠るダイヤモンド』だ。ドラマ自体もよいのだが、それに劣らず「劇伴」音楽に心惹かれる。それを聴いていると、胸の高鳴りを覚えるのだ。番組の視聴率は今ひとつぱっとしないようだが、私は最後まで観る(聴く)つもりである。  

 

 水曜は1日3コマの授業をこなして疲労困憊。にもかかわらず、帰宅後、つい、次のようなmassiveな曲を聴いてしまう: https://www.youtube.com/watch?v=ZnMBGpQHTUM。何かの反動だろうか。

 

 

2024年11月19日火曜日

ギーゼキングをあれこれ聴く

  このところヴァルター・ギーゼキングの録音をあれこれ聴いている。すると、彼の演奏は「新即物主義」の様式だと語られることが多いが、そんな単純なものではないことが改めて強く実感される。

たとえば、1938年録音のラヴェル〈スカルボ〉などはどうだろうか:https://www.youtube.com/watch?v=yuusdZnH-V8。基本的には抑制とコントロールの利いた演奏だが、頂点ではそうしたものをかなぐり捨てられている。そして、何事もなかったかのように再び元の音調に戻るのだが、この落差が面白い。

ギーゼキングはフランスものやグリーグなどを巧みに弾きこなした人ではあるが、やはりドイツ・オーストリア系の音楽の演奏に真骨頂があるように思われる。


2024年11月18日月曜日

メモ(128)

  作曲家の死後に全集が編纂されるのは、その人が歴史に名を残すべき人だと認定されたことだといえようか。ストラヴィンスキーの全集は出されてしかるべきだと思うが、複雑な著作権の問題があるからだろうか、まだのようだ。シェーンベルク関係では本人やベルク、そして、アイスラーですら全集が刊行中なのに、ヴェーバーンはそうではない。なぜだろう? やはり、算盤勘定の問題があるからだろうか? しかし、もしそうだとすると、20世紀後半の「現代音楽」の作曲家の全集など夢の又夢ということになろうか。いや、それ以前に、もはや誰もが認める巨匠などいなくなった、ということなのかもしれない(とはいえ、たとえばリゲティのような人ならば全集がいずれ全集が出てもおかしくあるまい。まあ、随分先の話ではあろうが)。

2024年11月17日日曜日

Naxosの「ブゾーニ ピアノ作品集」シリーズが完結

  Naxosレィベルで2000年から続いている「ブゾーニ ピアノ作品集」シリーズだが、次の13枚目で完結だとのこと(今年はブゾーニ没後100年)。全集ではないにしても、かなりの数のピアノ曲がヴォルフ・ハーデンの高水準の演奏によって聴けるわけで、先日も12枚目を聴いてみたが、《ソナティナ第2番》での妖しい美しさにははっとさせられる。ともあれ、この偉業を讃えたい。

 今年、Henleからブゾーニの《第2ソナティナ》の新校訂版が出ている(運指担当は上記のハーデン)。すると、これから他のピアノ曲も!? 

 

兵庫県知事選で前職の再選確実だとか。この結果はまことに興味深い。もし、選挙前の大方のマスコミ報道のように前知事が問題人物だったとすると、今回兵庫県民はとんでもない選択をしたことになる。が、実はマスコミの報道が偏向したものだったということになれば、話は別だ。さて、実際はどちらだろう(ちなみに、世界では日本のマスコミ報道の信頼性は残念なことに必ずしも高くはないようだが)? 正直なところ、私にはまだ何が何だからわからない。が、それだけにこれから再選された知事が何をどうやっていくかが気になるし、結果として物事がよい方向に進むことを期待したい。

なお、今回の選挙で投票率がかなり上がったことは注目に値する。ということは、これまで選挙に無関心だった人でも事と場合によっては投票に出向く、ということである。だとすれば、有権者にとってもっと有益な情報が提供されれば、さらに投票率は上がり、それだけ政治が活性化される可能性が生じることになろう。そして、そうした「情報提供」の役割を担いうるかどうかが、この国のマスコミの生き残りにも大きく関わることだろう。

2024年11月16日土曜日

昨日に続き

  昨日に続きコープランドの話題を。

作品表を見ると、コープランドの「生産性」が最も高かったのは1940年代だということがわかる。50年代に入ると作品数はぐっと減り、60年代になるとさらに。これは彼の創造力が衰えたからだろうか? だが、1960年に書かれた《九重奏曲》を聴くと、どうもそうだとは思えない。この作品には当時の前衛とも保守とも異なる独自の作風が示されているのだから(https://www.youtube.com/watch?v=4fQ3QwL8iQs)。

ところが、1962年に書かれた管弦楽曲《コノテーションズ》(https://www.youtube.com/watch?v=kPlLUucOKfw)、そして、67年の《インスケイプ》(https://www.youtube.com/watch?v=3PDMKV2pdxk)でコープランドはセリー技法を取り入れ、それまでの作品との繋がりを持つものの、ある面ではかなり異なる作品をつくりあげている。いずれの曲もさすがコープランドの手になるものだけあり、実に聴き応えがある。が、彼の創作は実質的にはそこでほぼ(というのも、その後にも数曲は書かれているからだが……)終わってしまうのだ。

《九重奏曲》であれほど豊かな音楽の世界をつくりあげたコープランドが、なぜ、その方向での創作を深めることなく、12音楽技法などを採用したのか。それはおそらく、己の本心からの欲求に従ったのではなく、「現代音楽」が我が世の春を謳歌していた「時代の圧力」に屈したがゆえであろう。そして、だからこそそれは長続きせず、結局、創作も先細りすることになってしまったのではないか。

なお、コープランドの数歳下のエリオット・カーター(1908-2012)のように「前衛」への転向が大成功した人もいる。肝心なのは、時代の潮流に乗るとか乗らないとかいうことではなく、自分が本当にしたいこと、そして、自分の資質に合ったことを突き詰めることであろう。もし、コープランドが周りのことなどあまり気にせず、とことん我が道を行っていたならば、《九重奏曲》の先にどのような豊穣な音の世界が繰り広げられることになったであろうか?

2024年11月15日金曜日

コープランド

  アーロン・コープランド(1900-1990)は高名な割には作曲家としての実像があまり知られていない人かもしれない(かく言う私もそれほど知っているわけではないが)。作品でよく取り上げられるのはいくつかのバレエ音楽、《エル・サロン・メヒコ》、第3交響曲、クラリネット協奏曲、他数曲であろう。

もちろん、それらを聴くだけでもコープランドが一流の作曲家だということはよくわかるのだが、決してそれだけの人ではない。たとえば次のような室内楽曲には、前記作品とはひと味異なる魅力がある(https://www.youtube.com/watch?v=nKa_9CMg4OU)。そして、これ以外にもすてきな作品がいくつもあるのだ。

 とはいえ、このままいくと、コープランドの作品の少なからぬものが埋もれてしまいそうである。だとすれば、まことにもったいないことだ。

2024年11月14日木曜日

《4分33秒》

  次の記事はなかなか面白い:https://news.yahoo.co.jp/articles/0abd2a0ca340280318d0f620a5035f62d2291474?page=1

ジョン・ケィジの《433秒》について生じた誤解、すなわち、それを「無音の曲」だとする理解を巡るものだ。が、私がこれを面白いと思ったのは、そうした誤解にも何かしら「創造性」があると思われたからだ。なるほど、それはケィジが考えたこととは違うかもしれないが、逆に言えば、彼が考えもしなかった視(聴)点が示されているからだ。創造においてしばしば「理解は誤解」である。

 ところで、それはそれとして、記事の見出しにある「音楽の概念を180度変えた」という言い方については些か疑問に思う。ある時期以降のケィジの行いは、それまで「音楽」と考えられてきたものとは根本的に異なるところでなされているものだからだ。もちろん、こう言うことで私はケィジを貶めようとしているのではない。むしろ、彼の創造性を賞賛しているのである。

 とはいえ、ケィジが考えたことや行ったことをそのままありがたく押し戴くのではなく、言葉の本来の意味で「批判」的に検討する時期がそろそろやってきたように(ケィジの音楽を深く愛する一人として)思う。

2024年11月13日水曜日

気分はアイヴズ

  先日話題にしたアイヴズ本を読み出してからは、すっかり「気分はアイヴズ」である。そこで手持ちのCDをあれこれ聴いている。のみならず、You Tubeでも。

その中に第4交響曲の動画があり、深い感動を味わう:https://www.youtube.com/watch?v=aMT_EGXQwyk。楽員の中にはいかにも楽しそうに弾いている人も目に付き、それがまたよい。私の少年時代、つまり、今から40年以上前にはまだまだ「秘曲」だったこの交響曲も、今や普通のレパートリーとなってしまったようだ。ならば、できれば関西で実演に触れてみたいものだ。

ちなみに、この曲が初演されたのは作曲から半世紀近く後のことで、タクトを執ったのはレオポルド・ストコフスキー。彼は録音も残しており、それは長らく私の愛聴盤だった。だが、次のような映像があることは知らなかった:https://www.youtube.com/watch?v=-xXv55ARtsM。まことに貴重な記録である。

2024年11月12日火曜日

若かりし頃のシャアがピーターを

  今朝のラジオでプロコフィエフの《ピーターと狼》(本当は「ペーチャ」と呼ぶべきだろうが……)を聴く。子ども向けの音楽だが決して「子供欺し」にはなっていない名曲である。だが、今朝の演奏はメンバーが面白い。次のところでうまくまとめられているので、参照されたい:https://violin20090809.fc2.net/blog-entry-224.html

演奏自体もなかなかりっぱなものだったが、興味深いのは語りを担当した人たちだ、主役のピーター担当はのちに『機動戦士ガンダム』でシャア・アズナブルを演じた池田秀一(1949-)である。この録音は1966年(私の生まれた年)のものだというから、その時点で何と16歳か17歳だ。他の出演者もなかなかのラインナップであり、「いやあ、こんなものがあったのだなあ」と驚くばかり。興味のある方はお試しあれ:https://www.youtube.com/watch?v=YsOn45ceou0

2024年11月11日月曜日

私の小林秀雄嫌いは治るか?

  私にとって小林秀雄(1902-83)の文章は不可解で興味をそそらないものだった。有名な「モオツアルト」をはじめとして、とにかくどれを読んでもピンと来ない。もちろん、読者たる私の素養の問題が大きかったのだろうが、とにかく「ああ、これは自分には無縁な人なんだな」と決め込んでしまい、あるときから全く読んでいない。

とはいえ、気にならないわけではなかった。だから、小林自身の文章ではなく、小林について書かれた文章をたまに読んでいた。その中に鹿島茂『ドーダの人、小林秀雄』(朝日新聞出版、2016年)があるが、これがまさに小林の「わけのわからなさ」を明快に説いた書であり、内容がいちいち腑に落ちた。それで「ああ、やはり小林など読まなくてもよいのだな」とすっかり安心したのである。

にもかかわらず、実は心の奥底では安心などしていなかったようだ。それが証拠に、先日、ご近所図書館で苅部直『小林秀雄の謎を解く――『考へるヒント』の精神史』(新潮選書、2023年:https://www.shinchosha.co.jp/book/603902/)を借りてきて今読んでいる。「もしかしたら、この著者の書き物ならば、自分の小林嫌いを治してくれるのではないか?」という期待があったのかもしれない。そして、本当にその期待は満たされるような気がしている。少なくとも、もう一度小林を読んでみようという気にはなったのだ。その結果、愛読者にはなれないかもしれないが、少なくとも妙な偏見からは脱することができるだろう。というわけで、苅部書との出会いに感謝。

 

その小林秀雄の盟友、河上徹太郎(1902-80)には以前から興味を持っており、その著作をまとめて読んでみたいとずっと思っている。当分はその機会は訪れなさそうだが、いつか必ず!

 

2024年11月10日日曜日

ヴォルフガング・リーム

  今日のNHK-FM「現代の音楽」で取り上げられていたのはヴォルフガング・リーム(1952-2024。今年に亡くなっていたことを今日はじめて知った)。昔からあまり好きになれないタイプの作曲家だったが、それでも聴いてみる。すると、若い頃の《Cuts and Dissolves 》(1976)からの抜粋は意外に面白かった。ところが、時代が下るにつれてだんだん嫌になってくる。番組最後に取り上げられていた《画家の詩》(2014 )では途中でラジオのスイッチを切ってしまった。作品からは力のある作曲家だということは私程度の者にも十分わかるし、彼の音楽のファンがそれなりにいても当然だとも思う。が、やはり私個人の好みには合わなかったわけだ。残念。

 

昨日話題にした伊藤隆太は医学者にして作曲家だが、同様に二足のわらじを履いていた作曲家としては、たとえば、松下眞一、松平頼暁などがいる。いずれも理科系の人だ。他にももっといるはずだが、そうした作曲家の中で理科系と文化系の割合はどうなっているのだろうか?

2024年11月9日土曜日

伊藤隆太という作曲家

  先日、服藤恵三『警視庁科学捜査官――難事件に科学で挑んだ男の極秘ファイル』(文藝春秋、2021年)という本を読んでいたとき、文中に「伊藤隆太」という名を目にし、「おや、この名前には見覚えがあるぞ」と思った。この人物は著者が警視庁に在職しながら大学で学位を得るべく学んだときの指導教員なのだが、なかなかの人格者として描かれていた。そこで興味を持ち、何とか記憶の糸をたぐり寄せると、秋山邦晴『日本の作曲家たち』の下巻(音楽之友社、1979年)所収の「作曲家名鑑」で取り上げられていたのを思い出す。そう、医学者にして作曲家だったのである。同書によれば「一九二二年(大正11)年呉市生まれ。東大医学部卒、池内友次郎、高田三郎らに作曲を師事。昭25年音楽コンクール管弦楽部門第一位入選」とあった。他でも調べてみたが、この人に間違いないようだ。

では、この伊藤隆太はどんな音楽を書いたのか。手っ取り早くYou Tubeで検索してみると、次の音源が見つかる:https://www.youtube.com/watch?v=lY6lI6Q7YHc。なかなかよい曲ではないか。他にもないかと探してみたが、残念ながら見つからない。大学の図書館で楽譜を検索してみても、このピアノ曲と歌曲が少しあるばかり。いずれ他の作品も見て(聴いて)みたいものだ。

さて、前掲書にはその伊藤氏のまことに味わい深い言葉があげられている。曰く、 

    

人にはそれぞれ、行き着くレベルがある。すぐに伸びる人。ゆっくり伸びる人。いろいろいるよ。でもね。みんなそのうちプラトー(停滞期)になり、必ず壁にブチ当たるんだ。 

この壁をすぐ乗り越える人。なかなか乗り越えられない人。やっぱりいろいろいるよ。この時期が長いか短いかで差が付いていく。でも必ず乗り越えられる。どうしても乗り越えられなかった人は、その高さで生きる人だったんだよ。人生はうまくできてるね(前掲書、275頁)

 

いや、まことにごもっとも。ちなみに、この伊藤氏には『シーベルトの香炉』(近代文藝社、1987年)という随筆集がある。これもいずれ読んでみたいものだ。『