2024年11月12日火曜日

若かりし頃のシャアがピーターを

  今朝のラジオでプロコフィエフの《ピーターと狼》(本当は「ペーチャ」と呼ぶべきだろうが……)を聴く。子ども向けの音楽だが決して「子供欺し」にはなっていない名曲である。だが、今朝の演奏はメンバーが面白い。次のところでうまくまとめられているので、参照されたい:https://violin20090809.fc2.net/blog-entry-224.html

演奏自体もなかなかりっぱなものだったが、興味深いのは語りを担当した人たちだ、主役のピーター担当はのちに『機動戦士ガンダム』でシャア・アズナブルを演じた池田秀一(1949-)である。この録音は1966年(私の生まれた年)のものだというから、その時点で何と16歳か17歳だ。他の出演者もなかなかのラインナップであり、「いやあ、こんなものがあったのだなあ」と驚くばかり。興味のある方はお試しあれ:https://www.youtube.com/watch?v=YsOn45ceou0

2024年11月11日月曜日

私の小林秀雄嫌いは治るか?

  私にとって小林秀雄(1902-83)の文章は不可解で興味をそそらないものだった。有名な「モオツアルト」をはじめとして、とにかくどれを読んでもピンと来ない。もちろん、読者たる私の素養の問題が大きかったのだろうが、とにかく「ああ、これは自分には無縁な人なんだな」と決め込んでしまい、あるときから全く読んでいない。

とはいえ、気にならないわけではなかった。だから、小林自身の文章ではなく、小林について書かれた文章をたまに読んでいた。その中に鹿島茂『ドーダの人、小林秀雄』(朝日新聞出版、2016年)があるが、これがまさに小林の「わけのわからなさ」を明快に説いた書であり、内容がいちいち腑に落ちた。それで「ああ、やはり小林など読まなくてもよいのだな」とすっかり安心したのである。

にもかかわらず、実は心の奥底では安心などしていなかったようだ。それが証拠に、先日、ご近所図書館で苅部直『小林秀雄の謎を解く――『考へるヒント』の精神史』(新潮選書、2023年:https://www.shinchosha.co.jp/book/603902/)を借りてきて今読んでいる。「もしかしたら、この著者の書き物ならば、自分の小林嫌いを治してくれるのではないか?」という期待があったのかもしれない。そして、本当にその期待は満たされるような気がしている。少なくとも、もう一度小林を読んでみようという気にはなったのだ。その結果、愛読者にはなれないかもしれないが、少なくとも妙な偏見からは脱することができるだろう。というわけで、苅部書との出会いにに感謝。

 

その小林秀雄の盟友、河上徹太郎(1902-80)には以前から興味を持っており、その著作をまとめて読んでみたいとずっと思っている。当分はその機会は訪れなさそうだが、いつか必ず!

 

2024年11月10日日曜日

ヴォルフガング・リーム

  今日のNHK-FM「現代の音楽」で取り上げられていたのはヴォルフガング・リーム(1952-2024。今年に亡くなっていたことを今日はじめて知った)。昔からあまり好きになれないタイプの作曲家だったが、それでも聴いてみる。すると、若い頃の《Cuts and Dissolves 》(1976)からの抜粋は意外に面白かった。ところが、時代が下るにつれてだんだん嫌になってくる。番組最後に取り上げられていた《画家の詩》(2014 )では途中でラジオのスイッチを切ってしまった。作品からは力のある作曲家だということは私程度の者にも十分わかるし、彼の音楽のファンがそれなりにいても当然だとも思う。が、やはり私個人の好みには合わなかったわけだ。残念。

 

昨日話題にした伊藤隆太は医学者にして作曲家だが、同様に二足のわらじを履いていた作曲家としては、たとえば、松下眞一、松平頼暁などがいる。いずれも理科系の人だ。他にももっといるはずだが、そうした作曲家の中で理科系と文化系の割合はどうなっているのだろうか?

2024年11月9日土曜日

伊藤隆太という作曲家

  先日、服藤恵三『警視庁科学捜査官――難事件に科学で挑んだ男の極秘ファイル』(文藝春秋、2021年)という本を読んでいたとき、文中に「伊藤隆太」という名を目にし、「おや、この名前には見覚えがあるぞ」と思った。この人物は著者が警視庁に在職しながら大学で学位を得るべく学んだときの指導教員なのだが、なかなかの人格者として描かれていた。そこで興味を持ち、何とか記憶の糸をたぐり寄せると、秋山邦晴『日本の作曲家たち』の下巻(音楽之友社、1979年)所収の「作曲家名鑑」で取り上げられていたのを思い出す。そう、医学者にして作曲家だったのである。同書によれば「一九二二年(大正11)年呉市生まれ。東大医学部卒、池内友次郎、高田三郎らに作曲を師事。昭25年音楽コンクール管弦楽部門第一位入選」とあった。他でも調べてみたが、この人に間違いないようだ。

では、この伊藤隆太はどんな音楽を書いたのか。手っ取り早くYou Tubeで検索してみると、次の音源が見つかる:https://www.youtube.com/watch?v=lY6lI6Q7YHc。なかなかよい曲ではないか。他にもないかと探してみたが、残念ながら見つからない。大学の図書館で楽譜を検索してみても、このピアノ曲と歌曲が少しあるばかり。いずれ他の作品も見て(聴いて)みたいものだ。

さて、前掲書にはその伊藤氏のまことに味わい深い言葉があげられている。曰く、 

    

人にはそれぞれ、行き着くレベルがある。すぐに伸びる人。ゆっくり伸びる人。いろいろいるよ。でもね。みんなそのうちプラトー(停滞期)になり、必ず壁にブチ当たるんだ。 

この壁をすぐ乗り越える人。なかなか乗り越えられない人。やっぱりいろいろいるよ。この時期が長いか短いかで差が付いていく。でも必ず乗り越えられる。どうしても乗り越えられなかった人は、その高さで生きる人だったんだよ。人生はうまくできてるね(前掲書、275頁)

 

いや、まことにごもっとも。ちなみに、この伊藤氏には『シーベルトの香炉』(近代文藝社、1987年)という随筆集がある。これもいずれ読んでみたいものだ。『

2024年11月8日金曜日

デ・キリコ展

   今日はデ・キリコの展覧会を観に、妻と神戸に出かけてきた(https://www.kobecitymuseum.jp/exhibition/detail?exhibition=382)。まことにすばらしかった。キリコの絵は昔からなんとなく好きだったのだが、今回いろいろな作品を観て、自分が思っていた以上にすごい画家だったと(己のちっぽけな)認識を新たにした。

私がキリコの絵として知り、好んでいたのはのっぺらぼうのマヌカンが登場するものであり、次の絵である:https://www.artpedia.asia/melancholy-and-mystery-of-a-street/(残念ながら、この絵は展示されていなかったが)ところが、彼の画風はもっと幅広く、一生の間にかなり劇的に様変わりするのだ。そのことを知らなかったから今日は驚いたわけだが、同時にこうも思った。「なるほど、天才は何をどう描いてもさまになるものだなあ」と。これが「才人」レヴェルだと、何か1つの独自の作風を貫くことで己のアイデンティティを示す(しかない)わけだが、「天才」はそうでなく、何をどう描いても、そこにその人の証しが自ずと刻印されるのだ(これは音楽などについても言えることだ)。というわけで、そんなキリコの絵に今日は圧倒されるとともに、大いに楽しませてもらった。

ところで、キリコといえば、このジャズのアルバムだ:https://www.youtube.com/watch?v=3oHjXTZO33g&list=PLXWSlLJP98qW3D46tqMc5cXN3gip8KZUj&index=6。ジャケットに用いられた絵と同様、何ともシュールな音楽である。

 

先日話題にしたアイヴズ本だが、読めば読むほどに面白い。その最大の美点は『アイヴズを聴く』という書名にある通り、作品の「リスニング・ガイド」である。譜例を一切使わず、音楽の仕掛けと聴きどころを簡潔明瞭に示す著者の力量には唸らされる。読みながら、「なるほど、これはこういうことだったのか!」と蒙を啓かれることの連続だ。断言しよう。これはアイヴズ・ファン必読(懐に余裕のある方には必携)の本だと。

2024年11月7日木曜日

メモ(127)

  どんな音でも音楽になりうる(=音楽として聴ける)と説いたのはジョン・ケィジだった。だが、その場合の「音楽」はそれまでに人々が行ってきた種々の音楽とは決定的に異なっている。後者の音楽は必ず「スタイル(すなわち、音の扱いの型)」を持っているのに対して、前者はそうではないからだ(「スタイルを持たないことがスタイル」だと言えなくもないが……)。それゆえ、ケィジのことを「音楽の概念を拡げた」などと単純に言えるものかどうか……。彼が拡げたのは「世界のとらえ方」だとは言えようが。

 なお、付言しておけば、個人的にはケィジの音楽には大好きなものもあれば、そうでもないものもある。そして、「思想家」としてよりも「音楽家」としての彼の仕事に心惹かれる。

2024年11月6日水曜日

すばらしいアイヴズ本の登場

  今日大学の図書館で、ぱっと目に飛び込んできたのが次の本だ:https://artespublishing.com/shop/books/86559-297-9/。今年生誕150年を迎えた米国の作曲家、チャールズ・アイヴズを論じたものである。もちろん、すぐに借りた。ぱらぱらとめくってみると、まことに面白そうだ。

これまで日本語で読める(そして、読むに値する)アイヴズ関連本は1冊しかなかった。同じ著者による『チャールズ・アイブズ : 音楽にひそむアメリカ思想』(旺史社、1993年)である。同書では作品についてはあまり論じられていなかったのだが、『アイヴズを聴く : 自国アメリカを変奏した男』では書名にある通り、作品について十分な記述がなされているようだ。というわけで、これはアイヴズ・ファンにはもちろん、彼の音楽をまだあまり知らない人にとっても貴重な手引きとなろう。この出版にとって(も)厳しいご時世に、よくぞこのような訳書を出してくれたものだ。というわけで、訳者と出版社には大感謝である。 

 

ところで、米国の大統領選でトランプ氏が当確だとか。まあ、ハリス某になるよりは世界にとってはいくらかましなのではなかろうか。

2024年11月5日火曜日

メモ(126)

  親しい人(私の場合、たとえば妻)と会話をしていると、なぜか相手の次の言葉がかなり正確にわかるときがある。それは会話の脈絡から推察されることもあるが、そうしたものが全くなくてもピンとくることもある。脳がそれまでのデータを踏まえて瞬時に「この人ならば、こういうときにはこういう言葉を発するであろう」ということを判断するのだろうか? それとも、何か人知を越えた不思議な力が働いているのだろうか?

いずれにせよ、音楽の演奏においてもこうした洞察力が働いているに違いない。さればこそ、同じメンバーによる室内楽でも、臨機応変、当意即妙の新鮮な演奏が可能になるのだろう。逆に言えば、そうした洞察力抜きに練習でつくりあげたことをいつも同じふうに再現しようとするならば、一定してある水準の演奏ではありえても、とんでもなくすごい演奏にはなりえまい。

2024年11月4日月曜日

気分はノーノ

  昨日の日曜、例によって午前中にNHK-FM「現代の音楽」を聴く。ルイージ・ノーノ(1924-90)の特集だった。その中でピアノとテープのための《苦悩に満ちながらも晴朗な波…》(1971-72)が取り上げられていた。番組の途中から聴き始めたのだが、とてもよい演奏だったので「いったい誰が弾いているんだろう?」と気になる。果たしてそれは北村朋幹の演奏だった。そこで調べてみると、この曲をリストの《巡礼の年》その他とともに収めたCDが出ているではないか。これは是非ともそのうち聴かねば(ケージの《ソナタと間奏曲》のCDも!)。

 この日は「気分はノーノ」になってしまったので、その後、いくつか手持ちのディスクを聴いてみた。まず、《苦悩に満ちながらも晴朗な波…》をポリーニの演奏で。これも悪くはないのだが、私は北村の演奏の方に心惹かれる。ついで、同じポリーニが参加しているソプラノ、ピアノ、管弦楽とテープのための《力と光の並のように》(1972)を。これはあまり好きな曲ではなかったのだが、今回はなかなかに楽しめた。さらには弦楽四重奏のための《断片-静寂、ディオティーマへ》(1980)をも。だが、この最後の曲は聴き手に極度の集中力を要求するので、さすがに何曲かノーノ作品を聴いた後では辛かった。こうしたものに対しては、やはりコンディションを整えてからでないと……。

 20世紀イタリアの作曲家の中でノーノは必ずしも私好みではないのだが、それでもこうして時折作品を聴いてみたくなる。

2024年11月3日日曜日

ピッチが半音も違うと

  昔、SP盤をLPに転写する際、ピッチがおかしくなっているものがたまにあった。私が少年時代、コルトー演奏のショパンのエチュード集を購い、帰宅して再生してみると、ピッチが半音高くてがっかりした記憶がある。ピッチが半音も違うと(そして、それ以上に気色悪いのが、テンポが不自然に――いわば早回しの映像のように――速くなることだ)、別の音楽に感じられたからだ。当時の私にとって、1枚のLP盤の買い物は一大決心を要するものであったのに……。

 さすがに現在にはそのような転写に際してのピッチの狂いはほとんどないようだが、皆無だというわけでもない。昨今は著作権の切れた録音を「盤起こし」、すなわち、マスター・テープからではなく、発売されたディスクを元に作成したCDがあれこれあるのだが、その中にはまことに良質なディスクもあれば、音質が格段に下がっていたりピッチがおかしくなっていたりするものもあるのだ(そのような場合、オリジナルのディスク自体のピッチがおかしいこともあるかもしれないが、転写する際に修正することはできるはずだ)。そして、後者のようなものをうっかり掴まされてしまった場合、私はそのメーカーのものは二度と手を出さないことにしている(たとえば、ギオマール・ノヴァエスの録音を集めた14枚組のセットを出しているVENIASなど。その1枚にショパンのワルツを収めたディスクがあるのだが、すべてのワルツでピッチが半音高い! 同じディスクにある第3ソナタのピッチは正しいにもかかわらず。ともあれ杜撰だとしかいいようがなく、このメーカーとはサヨナラである)。

  

このブログでは基本的に日々の雑感やたわいもないことを書き綴ってきており、その方針はこれからも変わらない。が、もう少し内容のあることを書き、そうしたものが書けたときにのみ公表し、人様に読んでもらいたいという気持ちもある。ならば、ホームページを開設すればよいのだろうが、それも今ひとつ億劫になってしまった。すると、もう1つくらい別なブログをつくり、使い分ければよいのかもしれない。 しばらく考えてみることにしよう。

2024年11月2日土曜日

実に美しい音楽

  シェーンベルクの音楽をはじめて聴いた少年時代、とてもそれを「美しい」とは感じられなかった。のみならず、一部の作品を除いては積極的に聴きたいとも思わなかった。ところが、それから短からぬ月日を経て、気がつけば「ああ、美しいなあ」と感じる瞬間を多々見いだせるようになっていた(もちろん、その「美しさ」はたとえば古典派やロマン派の音楽に感じられるものとは異なるものだが)。

すると、「シェーンベルクの音楽の聴き辛い響きは作曲当時の世のありようを反映しているのだ」といった類の物言いはかなりのところ疑わしく思われるようになった。もちろん、そうした「反映」が(意識的になされたものであろうとなかろうと)全くないわけではなかろう。だが、それだけであるはずがないのだ。

シェーンベルクはあるとき、自作の《管弦楽の変奏曲》を聴いた人から「実に美しいです」と言われ、素直に喜んでいる。私も同じ感激を作曲者に伝えたい気持ちだ。

2024年11月1日金曜日

今年もあと2か月

  今年も残すところあと2か月。いや、「まだ2か月ある!」と思って、いろいろ励むことにしよう。

 

今年生誕150年を迎えたシェーンベルクの「作品全集」の新譜が出ることを期待していたが、それはなさそうだ。残念。まあ、こんな不景気な世の中(に輪をかけて不景気なクラシック音楽業界)ともなれば、無理もないか。

それでも、私が彼の音楽を聴き始めた40数年前に比べれば、ディスクの数は格段に増えた。演奏家、聴き手ともに昔よりはシェーンベルクに馴染んできたということだろうか。とはいえ、やはり実演でもっといろいろと(つまり、お決まりの演目以外のものも)聴いてみたいものだ。

 

評論家の西尾幹二氏が亡くなった。氏のニーチェ』やその他数冊について私は愛読者だったが、ある時期以降の著作についてはそうではない。