次の記事はなかなか面白い:https://news.yahoo.co.jp/articles/0abd2a0ca340280318d0f620a5035f62d2291474?page=1。
ジョン・ケィジの《4分33秒》について生じた誤解、すなわち、それを「無音の曲」だとする理解を巡るものだ。が、私がこれを面白いと思ったのは、そうした誤解にも何かしら「創造性」があると思われたからだ。なるほど、それはケィジが考えたこととは違うかもしれないが、逆に言えば、彼が考えもしなかった視(聴)点が示されているからだ。創造においてしばしば「理解は誤解」である。
ところで、それはそれとして、記事の見出しにある「音楽の概念を180度変えた」という言い方については些か疑問に思う。ある時期以降のケィジの行いは、それまで「音楽」と考えられてきたものとは根本的に異なるところでなされているものだからだ。もちろん、こう言うことで私はケィジを貶めようとしているのではない。むしろ、彼の創造性を賞賛しているのである。
とはいえ、ケィジが考えたことや行ったことをそのままありがたく押し戴くのではなく、言葉の本来の意味で「批判」的に検討する時期がそろそろやってきたように(ケィジの音楽を深く愛する一人として)思う。