2020年2月24日月曜日

《花の街》と〈花の歌〉

 團伊玖磨(1924-2001)の歌曲《花の街》(1947)は中学校の音楽の教科書に収録されているので知る人も多かろう。悪い曲ではないが、さりとて格別の名曲だとも思えない(ので、なぜこの曲が学習指導要領で明治以後の日本の歌として必修7曲のうちの1つに選ばれているのか、私にはよくわからない)。まあ、それなりに素敵な曲ではあるが……(https://www.youtube.com/watch?v=EgPLCtaZuEA)。
 その《花の街》の中に「輪になって 輪になって かけていったよ」という一節がある(リンクした動画の42秒目あたり)が、実はこれにとてもよく似た曲がある。それはシャルル・グノー(1818-93)のオペラ《ファウスト》中の〈花の歌〉だ(次にあげる動画の23秒目以降に注目:https://www.youtube.com/watch?v=5LFB1eFuVFk)。まるで同じである。
  では、團はこのアリアを「ぱくった」のだろうか? それはないと思う。たぶん、意識的に借用したのではなかろうか。そのことは元のアリアの曲名から想像される。つまり、「花」に関わる名曲への(今風に言えば)「オマージュ」として借用したのだろう、ということだ。さもなくば、それを《花の街》と題した曲になど恐ろしくて使えまい。「花」繋がりでオペラに明るい人ならば、すぐに両者の関係に気付くだろうから(私はオペラには「暗い」者なので、なかなかこのことに気付かなかった。しかも、直接グノーのアリアを知る前にラヴェルの《シャブリエ風に》にこの一節が引用されているものを通して知ったのである)。
 もちろん、無意識の借用の可能性も(さほど高くはないだろうが)否定はできまい。が、その場合も「ぱくり」だとは言えまい。ただし、 團はある歌謡曲の盗作問題で意見を求められた際、意識せずになされた借用に対しても批判的なことを(のみならず、歌謡曲の世界を見下すようなことをも)述べている(正確な文言を引用したいところだが、手元に資料がないのでできない。神津善行『音楽の落とし物』(講談社、1980年)の中に件の盗作問題が取り上げられており、その中で團の言葉も引用されているので、興味のある方は参照されたい)。すると、《花の街》での〈花の歌〉の借用が無意識のものだったとすれば、團は天に唾する類の物言いをしたことになろう。さて、真相やいかに。

2020年2月15日土曜日

會田瑞樹 ヴィブラフォン ソロリサイタル in OSAKA

 今日は先にここで紹介した次の演奏会を大阪のザ・フェニックスホールで聴いてきた:

會田瑞樹 ヴィブラフォン ソロリサイタル in OSAKA

 前半
薮田翔一 :BillowⅡ
近藤浩平 :湖と舟 ~湖北の光と陰~
野田雅巳 :ヴァイブラさん ~1台のヴィブラフォンと2人の演者のためのちいさな劇 / 委嘱作品世界初演
糀場富美子:ねむりの海へ
木下正道 :海の手 

後半
野村誠  :相撲ノオト Sumo Note / 委嘱作品世界初演
坂田直樹 :Leptothrix / 委嘱作品世界初演
中村典子 :艸禱 popoli / 委嘱作品世界初演
佐原詩音 :玉蟲の翅、その結び   

結論から先に言えば、とても面白かった。
 何よりもまず、會田の演奏が素晴らしい。多種多様な作品に柔軟に対応しつつも、そのいずれにもこの人ならではの「何か」を強く感じさせるのだ。とともに、ヴィブラフォンという楽器の魅力を存分に味わわせてくれたのである。
 ただ、この楽器が作曲家にとってはなかなかに扱いの難しいものだということも感じられた。つまり、楽器の性格が強すぎるために、ともすると音楽がそれに飲み込まれてしまいかねず、さりとて、その「性格」から下手に逃れようとすると、なぜヴィブフォンを用いたのかがわからないような音楽になってしまうのだ(本日の演目のいくつかにそうしたいずれかの難点を感じさせられた。それらの作品にも部分的には魅力的な箇所があれこれあり、それはそれで楽しく聴かせてもらったが、1つの作品としては私を説得してくれなかった……)。
もっとも、逆にヴィブラフォンというのは作曲家にとって腕の示し甲斐のある楽器だとも言えよう。その意味で私が大いに心惹かれたのは糀場作品と坂田作品だ。いずれもヴィブラフォンを巧みに使いこなしつつ、説得力のある音楽を繰り広げていた。前者は何の外連味もなく本当に必要なことだけを語るといった体の音楽。また、後者は特殊効果も含めて「あの手この手」を用いながらもそれが表面的な効果に陥っておらず、見事に構成されていた。もちろん、そうした作品を活き活きと「現実化」する會田のパフォーマンスの見事さを忘れるわけにはいかない。
「パフォーマンスの見事さ」と言えば、この点でもっとも光っていたのは野村作品でのものだろう。それは演奏者にたんなる「作品解釈」や「作品の現実化」などではなく、もっと積極的な関わりとパフォーマンスを求めるものであり、會田はそれに十二分に応えていた。作品の途中では何ともシュールな光景が現出するのだが、會田は実にそれを自然にこなしていたのである。いや、この作品だけではない。結局、当日の他の作品でもそれぞれに彼一流のパフォーマンスを繰り広げていたのだ。
ともあれ、最初に述べたように、実に面白い演奏会だった。演奏者、作曲者、そして、この企画の実現に場を与えたホール関係者に深くお礼を申し上げたい。
(ところで、ヴィブラフォンの奏でる煌びやかな金属音とヴィブラートはなかなかに魅力的だが、これを今回初めて長時間続けて聴き、耳がかなり疲れた。それこそ演奏会が終わる頃には耳鳴りと軽い頭痛がしてきて、これが帰宅後もしばらく続くほどに。果たしてこれは私個人だけのことなのか、それとも他の人にとってもこの楽器の音というのはそうした危険をもたらすものなのか? もし、後者ならば、會田にも十分に耳の健康に気をつけてほしいところだ。己の道をさらに邁進するためにも)。

2020年2月7日金曜日

B. A. ツィマーマンの名作《フォトプトシス》

 ベルント・アロイス・ツィマーマン(1918-70)の作品は、昔はそう簡単には聴けなかった。録音は数えるほどしかなく、放送でもほとんど取り上げられなかった。ところが、今や種々の録音があり、また、インターネットにも音源があげられている。便利な時代になったものである。
 つい最近も、たまたま次のものを見つけた:https://www.youtube.com/watch?v=F44CCFvnkDY。名作《フォトプトシス》(1968)である。これがなかなかの名演で聴いて深い感動を味わった。動画なので演奏しているさまを見ることができるが、それもまた興味深い。
 演奏はケルンのWDR交響楽団であり、ケルンといえば作曲者ツィマーマンゆかりの地だ。彼は50代前半で世を儚んで自殺したのだが、その作品は今、こうしてケルンの楽団が熱演し、聴衆も喜んで聴いている。《フォトプトシス》はおよそ半世紀前の作品だが、この動画の演奏者の大半はその後に生まれた人たちだろう。
 ともあれ、この作品を未聴の人は騙されたと想って、一度聴いてみられたい。全曲は大きく3つの部分からなり、中間部ではあれこれのコラージュがなされており、第3の部分では多層的な音響が不思議な時間・空間感覚をもたらしてくれよう。