2023年2月25日土曜日

坂本龍一の評伝を「試し読み」してみたが

  坂本龍一の評伝が出た:https://dps.shogakukan.co.jp/sakamotoryuichi。上記リンク先、およびAmazonで一部を「試し読み」してみたが、自分で買いたいとまでは思えなかった(可処分所得が少なく、他のものを優先せざるをえないので)。とはいえ、いちおう読んで見たいという気持ちはあるので、その機会に恵まれたときにまた改めて感想を述べることにしよう。

 

 昨晩、随分久しぶりに学部時代の恩師、松本清先生と電話で四方山話をした。その際、坂本龍一を話題にしてみると、件の評伝には出てこない(出せない!?)ような興味深いエピソードをいろいろ教えてくれた。先生は坂本龍一の作曲の師、松本民之助(1914-2004)のご子息(兄上は作曲家の松本日之春(1945-)氏)で、同時期に「松本作曲教室」で学んでおり、学生時代にもいくらか交流があったので、若き日の坂本の一面をよく知っているわけだ(それゆえ、「評伝」の著者は兄の日之春氏だけではなく、松本先生にもインタヴューすればよかったのに、と思う)。

 松本先生の話で知る若き日の坂本龍一はやはりある面ではまことに非凡な人であった。つまり、己の能力とその限界(どんな才人にも限界はある)がわかっており、どうすればそれを活かして生きられるかということについて明確な見通しを早々と持っており、しかも、その後、それを実践して成功を収めたからである。まさにドラッカーが言う意味での「マネジメント」の達人に他ならない。

2023年2月24日金曜日

偶々フィッシュマンズの『空中キャンプ』を聴く

  最近、NHKFMでなかなかよい番組に出会った。それはクラシック音楽の番組ではない。ある時期以降、私がFMで定期的に聴くのは土曜夜の「FMシアター」だけである(加えて、その流れで「ジャズ・トゥナイト」を少しだけ――全部聴きたいのだが、その頃はもはや眠いので、「ラウンド・ミッドナイト」には達しない――)。が、時折、午前中に何の目当てもなくラジオのスイッチを入れることがあり、たまたまその番組を聴いたわけだ。それは「夜のプレイリスト」という番組である(「夜の」とあるように正規の放送時間は午後0時(やはり「ラウンド・ミッドナイト」!)なので、私が聴いたのは再放送)。

その番組紹介の文言はこうである(https://www4.nhk.or.jp/yoruplaylist/)。

 

~私の人生と共に在った5枚のアルバム~
人生の節目に聞いていた思い出のアルバム、人生に決定的な影響を与えたアルバム、
毎夜1枚ずつのアルバムを紹介し、人生とのさまざまな関係を、一人のパーソナリティーが毎週5日間通してお届けします。

 

いろいろなジャンルのアルバム1枚を、それを本当に気に入っている人たちの語りとともに聴けるというのはまことに楽しい。

 昨日聴いたのは脚本家の生方美久氏の紹介でフィッシュマンズというバンドの『空中キャンプ』(1996)というアルバムで、その音楽は繊細かつ、どことなくアンニュイな雰囲気が漂う、味わい深いものだった(https://www.youtube.com/watch?v=zGhVExKXkxg&list=PLeoqCuT1b99MZRoP2W1laqhetTCkV0vdV)。たぶん、この番組を聴かなければ一生ご縁のなかったであろうアルバムだ。残念ながらこれ以上彼らの音楽に深入りする時間の余裕はないけれども、この出会いをもたらしてくれたこの番組とアルバムの選者に感謝。

 

2023年2月22日水曜日

フーガ父子の音楽に夢中

  最近ますます心惹かれているのがイタリアの作曲家サンドロ・フーガ(1906-94)の音楽だ(https://www.youtube.com/watch?v=ZVIQz-YQQJc)。とにかく、聴いていると心が安らぐのだが、それだけではなく、その音楽のありよう、とりわけ、まことに繊細で独特な美しさと力強さを持つ和声と音の響きを詳しく探ってみたい気になっている(ので、近日中に楽譜をいくつか注文するつもり)。このフーガのような音楽を聴くと、「音楽には古いも新しいもない。あるのは良し悪しだけだ」ということが改めて強く実感される。

そのフーガの息子ジャコモとカルロッタはともにピアニストであり、Naxosから出ている「ピアノ・ソナタ集」でも1曲ずつ担当している(全3曲のうちもう1曲を担当しているクラウディオ・ヴォゲーラはフーガ直系の弟子だとか)。いずれもよい演奏である。ジャコモがロマン派の作品を弾いたリサイタルの動画も見てみた(https://www.youtube.com/watch?v=5UUuyfivVgI)が、とても味わいのあるピアノを弾く人だと思う。 いつか実演を聴いてみたいものだ。

 ちなみに、サンドロ・フーガの祖父はルイジ・ノーノ (1750-1918)という画家で、 同名の作曲家はこの画家の甥である。ということは、フーガと作曲家ノーノは親類だということになる。後者も立派な作曲家であり、好きな作品もいろいろあるが、私にとっては前者の方が格段に好ましい。

2023年2月19日日曜日

「耳コピー」の効用

   楽譜というものは便利なものだが、音楽を学ぶ過程であまりそれに頼りすぎたり信用しすぎたりすると、実際の音楽を聴く力、ひいては表現する力が十分には育たないことになるのかもしれない。というのも、楽譜というのはどれほど精密であっても、音楽のすべてを書き表せるわけではない(どころか、むしろ書き表せないものが少なくない)からだ。

その意味で、「耳コピー」、すなわち、実際の音楽を聴き取り、それをそっくりそのまま、音だけではなく微妙なニュアンスやイントネーションなどを(歌の場合には発音までも)楽器なり歌なりで再現する能力は「音楽する」、とりわけ外国の音楽を学ぶ上では重要であろう。ポピュラー音楽のミュージシャンにとってはそんなことは「当たり前」なのだろうが、クラシック音楽畑の人にとっては?

いわゆる「フォルマシオン・ミュジカル」は優れたソルフェージュの教育法だが、日本で行う場合はそこに「耳コピー」――教材となる演奏(唱)は、楽曲の作曲家と同じ言語を母語とする優れた演奏家によるもの――の練習も追加すればよいと思う。ソルフェージュに限らず、演奏教育の場でもまた(もちろん、個人で実践している人はいるだろうが、正式なカリキュラムにはないはずなので)。

2023年2月16日木曜日

イタリア語のrは常に巻き舌だというわけではない

  昔々、大学受験のために歌とソルフェージュを習ったときのことである。イタリア歌曲が入試課題にあり、発音に関しては「概ねローマ字と同じで、rは巻き舌」というまことにシンプルな原則を教わった(lの発音については何も言われなかった)。これで入試を突破し、以後、大学の学部、さらには別の大学院でも歌のレッスンを受け続けたわけだが、この原則を訂正されたことはなかった。それゆえ、かなり長い間、「これでいいのだ」と思い込んでいた。

 ところが、後年イタリア語の発音を勉強し直してみると、これがとんでもない間違いだったと知ることとなった。すなわち、巻き舌になるのはそれが強勢のある音節に含まれているときであって、そうでないときには「巻かない」(「叩き音」、もしくは、「はじき音」、つまり、日本語の「ラ」に近い音)になるのだ。この区別を知らなかったということは、語の「強勢」に(ということは、当然、文のイントネーションにも)無頓着だったことになる。だが、当時はそれを歌の先生が教えてくれなかったのだから仕方がない。

かつての歌の先生方にはそれぞれに「楽恩」を感じており、非難するつもりなど毛頭ない。ただ、「昔はそうだった」ということを日本の西洋音楽受容史の一コマとして書き留めておきたいだけである(なお、rの発音はあくまでもそのごくごく些細な一例にすぎず、その背景についての考察も述べたいところだが、それはいずれ改めて)。さすがに今はそんなことはないだろう(……と思いたいが、近年、ある学生のスペイン語の歌唱を聴いた際、似たようなr の発音の別を知っているかどうかを当人に尋ねたところ、果たして知らなかった。まあ、これは例外的なことなのかもしれないが)。

2023年2月14日火曜日

トリフォノフの《フーガの技法》を聴く

  昨晩は以前からずっと実演を聴いてみたかったピアニスト、ダニール・トリフォノフ(1991-)の演奏会へ。メインの演目がJ. S. バッハの《フーガの技法》だっただけに果たしてどうなることかと不安もなくはなかったが、それは全くの杞憂に終わった。まことにすばらしい演奏だったのである。

 トリフォノフがその前置きにしたのはブラームス編曲による〈シャコンヌ〉。有名で演奏効果の高いブゾーニ編ではなく、それに比べて些か地味な左手用の編曲を選んだわけだが、続く本編との繋がりはこちらの方が断然よい。最後の和音が鳴り止み、その余韻の中から最初のフーガが立ち現れる。実に巧みな演出ではないか。

 その「本編」だが、オルガンのごとき多彩な音色を駆使しつつピアノならではの繊細かつ微妙なニュアンスを活かしたトリフォノフの演奏は、この凝った作品の音楽上のしかけのみならず、それに伴う「音の戯れ」を存分に味わわせてくれる。もしかしたら、こうした演奏を「演出過剰」に感じる人もいるかもしれない(し、そうした判断にもそれ相応の理があるとは思う)が、とにかく私はトリフォノフの演奏を楽しんだ。今までに聴いたことのあるピアノによるこの曲集のどんな演奏よりも(もちろん、その中には今回の演奏とは異なる魅力を持つものもある)。

 最後のフーガは未完であり、バッハが中断したところで演奏を終えるのが(原典尊重の昨今の流儀では)普通だが、トリフォノフは自ら補筆しており、これがまことに興味深いものだった。このフーガの第3主題――BACHの名が織り込まれたもの――が現れるとき、トリフォノフはそれまでの2つの主題とは明らかに異なる決然とした調子で奏で始め、そのまま音楽が進んでいく。が、ほどなく「中断」箇所に到ると、音楽はがらりと雰囲気を変える。そこで彼が書き加えた音楽は、未完の音楽にきちんとした結末を与えるものだというよりも、いわば行き場を失って宙にさまよう音の魂を成仏、もとい、昇天させようとするもののように私には感じられた。のみならず、引き続いて演目の最後に演奏されたマイラ・ヘス編曲の《主よ、人の望みの喜びよ》もその流れで、つまり、魂の昇天を祝うものとして、深い感動をもって聴いたのである(もちろん、これはあくまでも私個人の感じ方にすぎない)。

 アンコールには大バッハの息子のうち2人、すなわち、ヴィルヘルム・フリーデマンとカール・フィリップ・エマヌエルの曲が弾かれた。いずれも魅力的だったが、とりわけ後者の軽妙洒脱、才気煥発な音楽は面白く、トリフォノフの演奏も見事。というわけで、演奏会の最初から最後まで余すところなく楽しませてもらった。どうもありがとうございました。

(なお、この日の演目は既発売のCDに収められている。興味のある方はお試しあれ:https://www.amazon.co.jp/%E3%83%90%E3%83%83%E3%83%8F-%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%AA%E3%83%B4%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%95-Daniil-Trifonov/dp/B0979VH1DK/ref=sr_1_3?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&crid=3VJBHKQPR5BWY&keywords=trifonov&qid=1676380663&s=music&sprefix=trifonov%2Cclassical%2C187&sr=1-3


 

 

2023年2月10日金曜日

アムランが弾く《イベリア》を聴いてみたが

  以前からずっと気になっていたマルカンドレ・アムランによるアルベニス《イベリア》の録音を聴いてみた。私はこのピアニストがあまり好きではないのだが、それでもこの曲集は聴いてみたいと思っていたのだ。

 結果からいえば、「残念!」の一言に尽きる(ただし、これはあくまでも私個人の趣味の問題である)。最初の〈エボカシオン〉を聴き始めて驚いたのは、まことに好き勝手に音楽をいじっていたことだ。旋律を細切れにし、自然な流れを遮るようなかたちでねちねちと歌い上げていたのである(確かに楽譜には事細かにスラーがつけられているとはいえ、このアムランのように音楽の流れを分断するのは考えものだろう)。そして、このよくいえば「自由」、悪くいえば「好き勝手」の流儀をアムランは他の11曲でも押し通していた。

 たとえば、この曲集中で一、二を争う難しさの〈ラバピエス〉でアムランは(自然な)「歌」と「踊り」をほとんど顧みず、音楽を「音の織物」、「音響の合成物」にしてしまう。しかも、まことに自由に緩急をつけてである。つまり、これはもはや演奏「解釈」ではなく、「再創造」のごときものになっているのだ。

 もちろん、私は演奏における「再創造」を否定する者ではない。むしろ、その可能性を大いに認めている(この点については拙著『演奏行為論』を参照のこと)。にもかかわらず、アムランの《イベリア》が好きになれないのは、その「再創造」の中身に説得力を感じないからだ。

 ところで、かつてはごく限られたピアニストの演目だった《イベリア》だが、今や世界中のピアニストが手がけるメジャーな作品となっている。となれば、当然、本番スペインの伝統的流儀とは異なる流儀の演奏がいろいろあってしかるべきだ(し、その意味ではアムランの試み自体は有意義なことだと私も思う。そして、私はその中身には賛成できないが、それを大いに評価する人も当然いよう)。 

 先日聴いてとても面白いと思ったのがユジャ・ワンの演奏である。彼女が弾く〈ラバピエス〉はなるほど本番スペインの流儀とはあれこれ異なってはいるものの、「歌」と「踊り」をまことに魅力的にこなしつつ、この超絶技巧の曲をまさに楽譜冒頭に指示されているように「陽気で自由に演奏」しているのだ(次の動画の5’05”から:https://www.youtube.com/watch?v=J2r9kxddZlY)。いや、見事なものである(なお、第134小節の第2拍真ん中の音がf#だったので、彼女は自筆譜に基づくスペインの諸版ではなく、初版系統の楽譜――ヘンレ版もそうだ――を用いているのだろう)。いつか、彼女の弾く《イベリア》全曲を聴いてみたいものだ。そして、彼女以外でもいろいろな流儀で《イベリア》の世界を楽しめればうれしい(前回話題にした法貴彩子さんにも大いに期待!)。

2023年2月8日水曜日

法貴彩子 ピアノ・ジャンクションVol.3 ~「ソナタ」の魅力と呪縛~

  昨日は法貴彩子さんのリサイタルを聴いてきた。とても楽しかった:https://phoenixhall.jp/performance/2023/02/07/16203/

 最初はベートーヴェンの「テンペスト」ソナタ。「ロマンチック」に弾かれることも少なくなく、それでもある程度はさまになる曲だが、法貴さんが奏でたのは紛れもなく「古典派」の音楽だった。そして、その意味でとりわけ面白かったのが第3楽章。そのリズムの扱いに、「なるほど、これは確かにあの『運命』交響曲をのちに書いた人の音楽であるなあ」と思わされる。

 続くリストのソナタはベートーヴェンの音楽に負けず劣らず堅固に構築された曲であり、それが見えてこないような演奏ではしょうがない。が、それをあからさまに示す、説明的な演奏でもつまらない。自らの構築性を壊しかねないような力や勢い、そして自由な遊びがこのソナタの演奏には欠かせないが、法貴さんの演奏にはそれがあった。音楽をいっそう劇的かつ効果的にする上でさらにいろいろ工夫の余地はあったかもしれないが、とにかく、聴かせる演奏であった。とりわけ、最後のクライマックスののち、長い休止を経て最後の締めくくりに入る箇所で深い感動に襲われた。

 さて、最後は当日の一番の難物にして呼び物たるブゥレーズの第2ソナタである。このブログで何度も述べているように、私はこの曲が名曲だとは思っていない。心惹かれる箇所は随所にあるものの、いちおうソナタ楽章に聞こえる第1楽章を除き、全体が断片の寄せ集めに聞こえてしまい、1つの作品としての満足感を与えてくれないからだ。にもかかわらず、これまで種々の録音を聴いてきたのは、この「ソナタ」が演奏者次第では十分面白くなりうるものだからだ。そして、この日の法貴さんの演奏は30数分に及ぶ全曲を最後まで見事に聴かせきった。断片の連なりから「生きた」音楽が生み出されていたのである(とりわけ第4楽章。もう少し「錯乱」の度合いが強ければなおよかったかもしれない)。

 ともあれ、このまことに興味深く、ハードな演目を音楽として十分に楽しませてくれた法貴さんに、そして、この企画を採用・実現したホールの関係者に深くお礼を申し上げたい。そして、法貴さんにはこれからもこうした挑戦を続けていただきたいものである。

2023年2月5日日曜日

シャピュイの和声課題

 You Tubeには実にいろいろな音楽がアップされている。そして、その中には何と種々の「和声課題」まであるではないか。以前、この件でシャランの和声課題のことを話題にいたことがあるが、今やそれ以外にも。

 たとえば、オギュスト・シャピュイ(1853-1933)の『和声課題集』などは全64曲のうちかなりのものがアップされている(https://www.youtube.com/watch?v=DxfUlO6wwQw&list=PLd3XyoC4vKdcc_hJHLCUFD15miLKm4fi4)。いや、これはすごい。 この課題集はシャランほど有名ではないが、そこで繰り広げられている音楽は良質であり(随所でフランクっぽい響きがするが、今回調べてみると、彼からオルガンをシャピュイは学んでいた)、だからこそ現在でも版が絶えていないのだろう。

  しかし、そのシャピュイの佳品、ヴァイオリン・ソナタ(1921)の音源はYou Tubeにはあげられていない。演奏される機会がないからだろう。残念。今後に期待、である。

 

 今日、たまたま次の動画を見(聴い)た:https://www.youtube.com/watch?v=W3Vzq1-ALoA。たぶん、これは演奏者なりにいろいろと考えて試みたものであって、決してたんに奇を衒っただけものだというわけではなかろう。が、それはそれとして、私個人としてはこの演奏に全く魅力を覚えない。音楽が不自然なものになっており、生気を失っているように感じられるのだ。まことに誰もが知る古典名曲の解釈というのは難しいものである。