2021年8月31日火曜日

長く楽しめる「現代音楽」作品

   ベント・アロイス・ツィマーマン(1918-70)の傑作《フォトプトシス》(1968)を私がはじめて聴いてから35年にもなる。以来、折に触れ、ときにはスコアを眺めつつ、この作品を聴き続けてきた。今日もまたWergoから出ている(元はLPだったものがCD化された)アルバムで聴いたが、いまだに深い感動を味わうことができる(それとは別の演奏だが:https://www.youtube.com/watch?v=K0FZKQukKL8)。 

今までに数多の「現代音楽」作品を聴いてきたが、このようなことは実はあまりない。すなわち、ある作品に対して、あるときに「すばらしい!」と感じても、多くの場合、やがてはじめの感動は色褪せていったのである(たとえば、ピエール・ブゥレーズのほとんどの作品がそうだ)。もちろん、逆のこともある。つまり、はじめは「どこがよいのか、さっぱりわからない!」と思った作品でも、後年、「これほど面白い作品だったとは……」と驚かされることもあるわけだ。が、いずれにせよ、自分にとって長い間変わらず輝きを放ち続ける「現代音楽」作品がさほど多くはない(とはいえ、ごく稀だというわけでもないが……)ということに変わりはない。

 では、そのように長く楽しめる「現代音楽」作品はそうではないものとどこが違うのだろうか? これはそのうちじっくりと考えてみたい問題だ。そして、『楽しく聴く現代音楽』と題した非マニア向けの読み物をいずれ書ければいいなあと思っている。 

 

 その後、『失われた時を求めて』を蝸牛のごとくゆっくりと読み進んでいる。鈴木道彦は文章自体は平明なのに、ちょっとした語句の選び方や表現のためにしばしば「躓き」をもたらす。そこで他の訳を読み比べ、「ああ、なるほど、そういうことだったのか」と納得する次第。鈴木の解説本はまことに読みやすく、啓発されるところ大なのに、肝心の翻訳が読みにくいのは残念。

2021年8月29日日曜日

岡村喬生の《冬の旅》

 今からちょうど30年前、当時住んでいた横浜でたまたま岡村喬生(1931-2021)が歌う《冬の旅》のCDを見つけ、ちょっとした好奇心から購い、しばらく愛聴していたことがある。岡村の歌は濃密な表現に彩られており、時折音程がぼやけるところがあっても、それも「表現」のうちだと思い、あまり気にならかった。他方、ピアノの高橋悠治の演奏はまことに淡々としたものなのだが、それがまた岡村の表現の効果をいっそう強めているように感じられた。とにかくなかなかに面白い演奏だと当時は感じていたのである。

 さて、その岡村の《冬の旅》を今日、随分久しぶりに聴いてみて大いに驚いた。一音一音を情緒纏綿と歌いあげ、母音を朗々と響かせ、こぶしのごときものを利かせるさまはまるで「演歌」ではないか(この「演歌」というジャンルとその歌唱スタイル自体については、私はこれはこれで面白いものであるなあと感じている。そして、「並のクラシックの歌手」よりも「優れた演歌歌手」の歌の方に心惹かれる)。もちろん、それはそれで面白いし、当人にとってこのように歌う必然性があったのだろうと思わせる歌唱ではある。が、だとしても、これはドイツ語歌曲のノーマルな歌唱ではない(と30年前の私は気づかなかった……)。

 岡村はイタリアで学んだのち、オーストリアやドイツの歌劇場で専属歌手を務めた経歴の持ち主だが、当時は当然、この《冬の旅》のような歌い方はしていなかったはずである(さもなくば、当地で通用したはずがない)。だとすると、海外生活を切り上げて本拠地を日本へ移したのちに、こうしたスタイルへの変化(あるいは回帰?)が生じたことになる。

 私は何も岡村の歌を批判したいのではない。また、たぶん、これからも(ごくたまにではあっても)彼の《冬の旅》を楽しく聴くことだろう。だが、それはそれとして、彼のシューベルトの歌唱に「西洋音楽の日本化」の一端を見ないわけにはいかない。そして、それだけに、そうした岡村の《冬の旅》はこの問題を考える上で、いろいろと材料を提供してくれているように思われる。

 私は「原典至上主義者」ではないので、オペラの日本語上演には反対でない(どころか、もっと行われてもよいとさえ考えている)し、松本隆の訳詞による《冬の旅》を実演で聴いてみたいと思っている。

2021年8月27日金曜日

演奏によって「つくられねばならない」作品の評価

 ピアニストのクラウディオ・アラウはリストのある種の作品については演奏で「つくられねばならない(have to be made)」と言う(ジョーゼフ・ホロヴィッツ『アラウとの対話』(野水瑞穂・訳、みすず書房、1986年、156頁)。彼が例としてあげているのは、たとえば《超絶技巧エチュード集》の〈マゼッパ〉や〈夕べの調べ〉といった曲であり、後者については「あのアルペッジョはともすればつまらない響きに墜ちる可能性がある」(同)と具体的に語っている(なお、アラウは応〈オーベルマンの谷〉はそうした類の作品ではないと言うが、私はこの曲もかなり「きわどい」ところにあると思う)。

 これはともするとリストの作品の未熟を指摘する言葉にもとられかねないが、アラウの本意は決してそうではない。リスト作品には演奏のありようが大きく関わっていると彼は言いたいのである。もちろん、リストの膨大な作品のすべてが傑作、名作だというわけではないが、少なからぬ作品が実際の「演奏」のことを考慮に入れていないがために低評価に留まっている可能性は十分にあろう。そうした作品は並の演奏では持ち味を発揮できないのである。演奏技巧はもちろん、音楽性の面でも並外れた演奏によってこそ、すなわち、聴衆をひきつけるパフォーマンスによってこそリスト作品は光り輝く、というわけだ。

 そして、それは何もリスト作品に限ったことではあるまい。少なくとも19世紀までの「自作自演が当たり前」だった頃の作品を評価する際、演奏のありようを度外視するわけにはいかないのではないか。そして、その意味で、「楽譜をきちんと音にしました」式の演奏は19世紀の「埋もれた」作品の再評価にとってはむしろ有害だと言えよう。その時代の作品を扱うには、やはり演奏の流儀もそれにふさわしいものである必要があろう。そして、たぶん、「演奏」というものに対する根本的な意識変革が求められるのではないだろうか。だが、それは今や衰退の一途を辿る「クラシック音楽」にとって何らかのプラスをもたらすはずだと私は思う。