2020年4月29日水曜日

音楽にお笑いは可能だろうか?

   音楽にお笑いは可能だろうか? 具体的なテクストを持つものや演劇的な身振りを伴うものならば、その意味を潤色するかたちで笑いに関わることはできようが、純粋な器楽の場合はどうだろうか。
 まず考えられるのは引用・借用である。すなわち、出典がそれなりに有名なものであり、その元の脈絡から大きく外れるかたちで音楽が引用・借用されれば、その「ズレ」が笑いをもたらすことは十分にありうる。が、そうはいっても、少しでも用い方を誤ると却って聴き手をしらけさせてしまうことになるので、これはなかなか難しかろう。また、うまくいったとしても、腹の底からの笑いを引き起こすことは難しく、せいぜい聴き手の顔をほころばせるか、微笑を誘うことができれば御の字ではないか。
 次に考えられるのは、何か具体的な音現象の模倣である。が、これもよほどうまくやらないと既存の音楽の引用・借用以上に「はずして」しまうことになろう。そして、偶さかうまくいったとしても、何か一瞬の冗談のようなものに留まってしまい、そうしたものは一度ネタが割れてしまうと、次はなかなか笑えまい。
 では、純粋な音の構成だけで(何か予め「解説」で誘導するようなこともなく)人を笑わせ、しかも、その笑いが作品の構成要素としてしかるべき重みを持つような音楽はつくりえないのだろうか? たぶん、この課題に真正面から取り組んだ作曲家はこれまでにいないはずである(「笑い」をテーマに掲げている人はいないでもなく、その着眼点のよさは大いに称賛したいが、残念ながら肝心の作品があまり成功しているようには思えない)。ならば、未開拓の分野としてこれからいろいろ試みる価値と可能性があるのではないだろうか。というわけで、そうした奇特な作曲家の登場に期待したい。

2020年4月28日火曜日

海を越える落語

 過日、『柳家喬太郎のヨーロッパ落語道中記』(フィルムアート社、2019年)という本をとても面白く読んだ(喬太郎師匠ファンの娘の勧めで)。落語の公演を海外でやっていたとは知らなかったが、歌舞伎なども海外で公演しているくらいだから、落語でも同様なことがなされていたとしても不思議はないわけだ。
が、視覚的な要素が強い前者に比べ、ほとんど「言葉」で勝負する後者はさぞかしたいへんだろう。同書によれば、あらかじめ字幕を入念に用意し、そのままでは通じそうもない翻訳不可能な箇所は適宜アレンジするのだとか。すると、非日本語話者にもそれなりに通じるらしい。もちろん、それには落語家のパフォーマンスの力も大いに与っていよう(昨年、喬太郎師匠の公演を娘と観てきたが、いや、見事だった。何とも自然に笑いを引き出してくれるので、公演後はすっかり気分爽快に。まことに「お笑い」の芸というのは偉大である)。
 もちろん、そうはいっても、どうしても伝わりきらない部分は残るだろう。が、たとえば、日本人が西洋のオペラを字幕で観る場合にも同じことはいえるわけで、その辺はお互い様である。私が興味を持つのは、言葉や背景となる文化の違いを超えて「伝わる」のはいったいどういう部分なのか、ということだ。落語の筋に留まらず、もう少し深い部分で何かが伝わらなければ、そうそう海外で公演を続けられるはずもない。ということは、「何か」が伝わっているのは確かであろう。また、落語のそれ以外のどんな部分に異邦の人たちが何を感じ、どういうふうに反応するのかにも興味がある。
 異文化間の「理解」には大なり小なり何らかの「誤解」がつきものだが、仮にそれが「こんにゃく問答」のようなものになったとしても、何か1つのものによって人々の間に交流が生じ、当事者がそれぞれに幸せな気分を味わえるのであれば、それはまことにけっこうなことであろう。もちろん、それは日本に移入された種々の外国由来の((西洋芸術音楽を含む)文物についても言えることだ。

2020年4月27日月曜日

高名であるにもかかわらず

 高名であるにもかかわらず、なぜかその人について読むに足る本が日本ではほとんど出ていない作曲家が何人かいる。
 私が愛して止まないプロコフィエフもその1人。音楽之友社の「作曲家・人と作品」シリーズでもショスタコーヴィチの巻はあるのに、プロコフィエフのものはない。何ということであろう。前者に比べて後者の人気が劣るというわけでもなかろうに。もっとも、同社からはプロコフィエフの自伝が出ているのはありがたい(もう少し訳がよければ言うことなしだが……)。いずれ、同シリーズからプロコフィエフの巻が出ることを期待しよう(なお、音楽之友社のライヴァル、全音楽譜出版社は近年プロコフィエフ作品の出版に力を入れているようで、これは本当にありがたい。スコアにつけられた解説も実に読み応えがある)。
 だが、そのプロコフィエフよりも格段にビッグ・ネームなのに恵まれていないのがハイドンであろう。ヴィーン古典派の三大家の1人だと言われながら、モーツァルトやベートーヴェンに比べて今ひとつ(いや、ふたつ以上)扱いが軽いのだ。が、これには仕方がない事情もある。つまり、ハイドンの音楽は他の2人に比べて一見穏健で、ぱっと聴いた感じでは地味に感じられるのだ。かく言う私も、ハイドンの面白さに気づくのには随分時間がかかっている。が、一度気づけば、もうその魅力からは離れられない。ヴィーン古典派三大家のうち、作品を聴いていてもっとも心が晴れやかかつ穏やかになるのは、少なくとも私にとってはハイドンである。
ローゼンの『古典派様式』は三大家を中心に論が進められており、当然、ハイドンにもそれなりの紙幅が割かれている。そして、個人的な好みで言えば、他の2人について書かれた章(ももちろん読み応えがあるが、それ)よりもハイドンを論じた章の方が格段に興味深い。というわけで、同書の邦訳が店頭に並んだ際には(まあ、秋までには出ると思う。そして、その頃にはコロナ・ウィルス禍もいくらか収まってはいることを期待したい……)、是非とも手にとってぱらぱらとめくっていただきたい。