2020年4月4日土曜日

音楽の言外の意味

 音楽の中に言外の意味を込めることは古来、いろいろとなされてきている。西洋音楽で言えば、たとえば、音名によって語を表したり、何らかの音型に象徴的意味をもたせたり、あるいは既存の音楽の引用をしたりすることなどがそうだ。
 こうした技法は必ずしもそれがはっきりと聞き取られたり意味が理解されたりすることを求めるものではない。バッハが用いた象徴技法など、普通に音楽を聴いているだけではまずわからないものが多いし、楽譜を分析してもその判断や解釈が分かれることも少なくない。これはもしかしたら、「人はともかく、神には通じるはずだから、それでよい」ということなのかもしれない。
また、ショスタコーヴィチなどの場合には、「バレたら困る!」というものが多かろう。にもかかわらず、彼がそうした技法をあれこれ駆使したのは、作品の中で胸の中のもやもやをはき出したかったに違いない。のみならず、「わかってくれる人もいるだろう」との期待を込めていたのだろう。
とはいえ、そうした隠されたメッセージの解読作業は、もちろん面白いことだし、十分意義のあることではあるが、あまりそれに深入りしすぎると、ありもしないものを探そうとやっきになってしまい、眼(耳)前の音楽の実像が霞んでしまうことにもなりかねない。ショスタコーヴィチの場合、とりわけそうした「迷宮」へと人を誘うものが彼の作品自体や人生には多々あって、少なからぬ人を道に迷わせているようだ。
この「ショスタコーヴィチの秘宝探し」ゲームに興じている人たちが本当に音楽を聴いているのかどうかを試す方法がある。それはプロコフィエフの作品を解釈させてみることだ。彼の音楽はショスタコーヴィチに比べればかなり楽天的に聞こえる。が、あの時代のソヴィエトでそれなりに辛酸をなめている人の内面がそれほど「お気楽」なものであったはずがなく、そして、その内面は何かしら作品のありように反映されていないはずがない。そうしたものをプロコフィエフの作品から何かしら聞き取ることができる人ならば、ショスタコーヴィチの音楽にも言外のメッセージをいろいろと見て取っているだろう。が、もし、そうでないのだとすれば……。