2021年5月31日月曜日

カサドシュのドビュッシー

 ロベール・カサドシュ(1899-1972)といえば、「作曲家直伝」ということでラヴェル作品の演奏が高く評価されている。また、モーツァルトの演奏もすばらしいし、サン=サーンスの協奏曲の演奏も見事だ。が、「作曲家」カサドシュの作品を聴くと、必ずしもそうした「古典」的なものに収まりきる人ではないことがわかる。何か独特のパッションが彼の作品の、そして、演奏の随所からはにじみ出ているのだ。

 それゆえ、そんなカサドシュの弾くドビュッシーもなかなかに味わい深い。たとえば、前奏曲集第1巻第1曲〈デルフィの舞姫〉を聴くと、その何とも軽やかな足取りにはっとさせられる。垂直の響きを決して軽んじているわけではなく、たっぷりとした響きを伴いつつも音楽がどんどん前へ前へと進んでいく(同じフランス人で現代の名手たちの演奏を聴くと、「サウンド」重視で一瞬毎の響きをまことに緻密につくりあげており、それはそれでけっこうなのだが、その分、どこか足取りも重くなっている)。が、たんに軽やかなだけではない。そこには何とも微妙なリズム感があり、陰影がある。

 それだけに、カサドシュがドビュッシーの《エチュード集》を録音してくれなかったのは至極残念。だが、他の主要ピアノ作品については録音を遺してくれているわけだから、大いに感謝しつつこれからも楽しませてもらうことにしたい。

 

2021年5月30日日曜日

メモ(59)

 人は誰しも自分を取り囲む「現実」の中で生きている。が、その中身は人それぞれで、たとえ同じ空間を共有していたとしても、各人にとっての現実は異なる。

 それゆえ、自分にとっての現実を安易に一般化するのは禁物だし、まして他者に「同じもの」として押しつけることなど論外だ。「私は私、あなたはあなた」である。

 が、「私」を尊重して欲しければ、「他者」も尊重しなければならない。

 皆が同じことを考え、同じふうに行動していたら、何か対応しきれない事態が生じたときには全滅するしかない。が、皆がそれぞれ適度に違ったふうに考え、生きていれば、「何か」を乗り切る術が見つかるかもしれない。

 

 ここ数日、大林宣彦監督の作品を観ている。私は氏の映画が大好きなのだが、未見の作品がいろいろある。先日観たのは『野のなななのか』(2014)であり、今観ているのが『この空の花 長岡花火物語』(2012)だ。いずれも現実と非現実、そして、「戦争の記憶」が交錯する何とも幻想的かつ超現実的な、だが、最終的には観る者を現実の問題へと向かわせ、何かを考えさせずにはおかない名作だと思う。とりわけ年若い人たちにこそ勧めたい。

 

2021年5月29日土曜日

「生」のための芸術

 「芸術のための芸術」なるものを私は認めたくない。芸術には「生」の何らかの局面のために(たとえ微力であっても)有益なものであって欲しいと思う。

 もちろん、その「有益」の中身は人によってさまざまであろう。そして、ある芸術作品(やそのパフォーマンス)が有益であるか否かの決め手となるのは、そのもの自体のありようや質もさることながら、むしろ、その都度そうした芸術に関わりを持つ者の主体的な行為のありようだろう。となると、いわゆる「名作(名演)」であっても人によっては「有益」だとは限らないし、逆に世間的に「駄作」とされるものであってもある人にとっては輝きを放つ瞬間を持ちうるわけだ。

 それゆえ、「何がすばらしい芸術なのか?」という問いよりも、「いつ、あるものが、ある人にとっては有益な芸術になりうるのか?」という問いの方が私には遙かに切実だ(から、私にとっては芸術作品の「存在論」というのはほとんど意味を持たない。否、精確に言えば、行為論とセットでのみ意味を持つ)。その根底にあるのは「いかにしてよりよく生きうるか?」という問いであり、その答えは人によりさまざまだろうが、そう問い続けることが大切なのだと私は信じている。