2023年1月31日火曜日

メモ(90)

  たとえば欧米のキリスト教の信者たる作曲家がその他の宗教用音楽を書くことなどまずありえまい。ところが、日本では1人の「西洋音楽」の作曲家があるときは新旧のキリスト教用、またあるときは仏教諸派用、そしてまたあるときは別の新宗教用の音楽を平気でつくってしまう(もちろん、そうではない作曲家もいるが)。「注文があれば依頼に応えてどこが悪い?」というわけだろうか。あるいは「神」は1人だけではなく「八百万」いるからだろうか。ともあれ、まさにこうした点にも「西洋音楽の日本化」(くどいようだが、そのこと自体を批判するつもりは私には全くない)の一面を看て取ることができる。

2023年1月27日金曜日

略記法

  次にあげるのは、ある名曲の一部で、見やすくするためにいろいろな略記法を用いたものである。ピンクの丸囲みは同じ音型(「・/・」や「・//・」を用いる場合もある)、音符を略しているのは同じ音高のもの、「+8」はオクターヴ重複、波線は半音階、である。また、#の音は緑、ダブル#の音は青、♭の音は赤で記してある。こうすると、元の真っ黒な譜面がまことにすっきりするし、音楽の組み立てもはっきりする。



  今年はプロコフィエフの没後70年なので、それに因むCDセットが出るだろうと思っていたらが、やはり:https://www.hmv.co.jp/artist_プロコフィエフ(1891-1953)_000000000019278/item_プロコフィエフ-コレクターズ・エディション(36CD)_13664407。ところが、この内容が酷い。演奏者の選択も適当だし、同じ曲に複数の録音がある一方で含まれていてしかるべき作品(つまり、滅多に取り上げられないがプロコフィエフの創作を見渡すのに欠かせなもの)が少なからずない。また、1つの作品から中途半端に抜粋されているものもあり、これでは泉下の作曲家も浮かばれまい。私もプロコフィエフの大ファンとして泣けてくる。

 

 

 

 

2023年1月24日火曜日

メモ(89)

  日本の「西洋音楽」がいわばクレオール語のようなものだということはここで何度か述べてきた。そして、それを別に負い目に(言い換えれば、「自分たちのやっている西洋音楽は紛い物だ」などと)感じる必要がないが、「違い」は知っておいた方がよいということも。

 その「違い」をもたらす要因は2つある。1つは「言語」。そして、もう1つは「エートス」だ。私個人の近年の関心はもっぱら1つめのものにあるが、2つめのものも軽視していけないとは思っている。

 もし私がもう20ほど若ければ、その「エートス」の問題に取り組みたかったところだ。そして、その際にとりわけ注目したい点の1つが、現代でも健在の「和を以て貴しとなす」という気風である。この西洋の個人主義とはおよそ対極にあるもの(もちろん、これはそのいずれがよいとか悪いとかいう話ではない)が日本の西洋音楽にどのような影響を及ぼしているのかを具体的な音楽(すること)のありようから探れば、なかなかに面白い結果が得られるのではないか(くどいようだが、そのことで「日本的西洋音楽」を批判するつもりは毛頭ない。かく言う私の「西洋音楽」も多かれ少なかれ「日本的」なものであるに違いないからだ)。

 とはいえ、私にはその気力も時間もない。というわけで、「エートス」の面から「西洋音楽の日本化」を探ることについては若き学徒に大いに期待したい。

2023年1月22日日曜日

カドシャ・パール

  名曲、名演:https://www.youtube.com/watch?v=zWsneS28F1I。曲は今年没後50年になるパウル・ヒンデミット(1895-1963)の《ピアノ音楽》作品37、第2部(1926)第1曲であり、演奏者はハンガリーのピアニスト=作曲家のカドシャ・パール(1903-83)である。今日、彼の名はシフ・アンドラーシュやコチシュ・ゾルターンらのピアノの師として知られている(リゲティやクルタークも生徒だったという)が、ピアニスト、そして作曲家としても活躍した人であった。

 もっとも、実のところ私は彼の演奏や作品をこれまで聴いたことがなかった。が、今日、急に「いったいどんな演奏をしていたのだろう?」と気になり、調べてみたのである。すると、上にあげたものが見つかったので聴いてみると、まことにすばらしい演奏である。他にも自作も含めていくつかの録音を聴いたが、どれも見事だ:https://www.youtube.com/playlist?list=OLAK5uy_kZjNfL3NuGdFXM-nD40GVDwsZ4a1IDNyc

また、これ自作自演だが演奏はよいし、作品も非凡である:https://www.youtube.com/watch?v=gkgYliBinZ0。かくして私はすっかりカドシャのファンになってしまった。今年は生誕120年、没後40年にあたるので、「お宝音源」がどこかから出てこないものだろうか。

 

2023年1月15日日曜日

やはり「あれかこれか」ということになってしまう

  聴きたい音楽は数多あれども、時間は有限なので「あれもこれも」というわけにはいかず、どうしても「あれかこれか」になってしまう。今日の高橋幸宏の訃報を目にし、改めてそのことを思った。

 戦後日本のポップスにはそれなりに興味はあり、今日も前から気になっていた次のもの(https://www.youtube.com/watch?v=ZkMilWOHX7o)を聴いてみたのだが、「ああ、面白いなあ」と思い、もっと細野晴臣の音楽を聴いてみたくなる。この人の音楽には見事な職人芸もさることながら、それには収まりきらない「何か」、天才の閃きのようなものを強く感じさせられるのだ(その点、坂本龍一の音楽はそうではない。もちろん、彼のことも「現代の名工」として大いに尊敬しているが)。すると、その延長線上でYMO繋がりの高橋幸宏も、ということになるのだが、残念ながら私にはその時間はない。本当に残念だ。そして、それはこの高橋に限ったことではない。他にも面白いもの、興味深いものがいろいろあるに違いないからだ。が、仕方がない。

 昨晩もいつものラジオ・ドラマの後に少しだけ『ジャズ・トゥナイト 』 を聴く(最後までつきあいたいのだが、就眠時間の都合で諦めざるをえない)。昨日のテーマは「ジャズ成人式」!(https://www4.nhk.or.jp/jazz/x/2023-01-14/07/68026/4672880/)。最初の曲は宮間利之とニューハードの《成人式》というものだったのだが、これが不思議な味わいのある曲で、いつのまにか引き込まれてしまう。続く《振り袖は泣く》という曲もなかなか面白いではないか。……が、それ以上深入りする時間はない。残念。

 音楽に限らず、人生には「あれかこれか」の選択を迫られる場面が無数にある。そして、その結果として現在の自分があるわけだ。そして、これからもそうした選択は続いていく。その結果、最終的に自分はどのようなところへ行き着くことになるのか。こればかりは死ぬ間際まではわからないので、まあ、せいぜいそれまでその都度の選択を楽しむことにしよう。

 

 

2023年1月12日木曜日

ジェフ・ベックが亡くなった

  ジェフ・ベックが亡くなった。数日前、「現代音楽」の作曲家、松平頼暁逝去の報を目にしたときには「へえ、そうなのか」以上の感慨は浮かばなかったが(ちなみに、氏の父、松平頼則は偉大な作曲家だと思うが、その子息の作品に私が「音楽」を感じることはあまりなかった)、それに比べればベックの死は私にとっては格段にニューズ・ヴァリューがある。

 実のところ、私はベックの音楽をほとんど知らない。ごく限られたものしか聴いたことがないのだ。それにもかかわらず、その「ごく限られたもの」だけで彼は私にとっては「偉大なミュージシャン」なのである。

 たとえば、次の曲のパフォーマンスなどどうだろうか:https://www.youtube.com/watch?v=jP-bT8FCiOo。何ともカッコいいではないか。この〈蒼き風〉はアルバム『ワイアード』(1976 B面最初の曲であり、はじめて聴いたとき(1980年代はじめ)にたちまち魅せられてしまった。その演奏(https://www.youtube.com/watch?v=BupklOQ4Fc0)の26 秒めに何ともカッコいいパッセージがあるのだが、当時から「いったいこれはどうやって弾いているのだろう?」と不思議に思っていた。これはスタジオ録音だが、ライヴでの演奏ではその箇所がキーボードで弾かれていたので、「よほど難しいに違いない」と思い、ますますベックへの尊敬の念が高まったものである(なお、今日、その種明かしと覚しき動画を見つけた。「ははあ、なるほど」である。いや、面白い。やはり26秒めに注目されたい:https://www.youtube.com/watch?v=VJeNhl-VKmA&list=RDVJeNhl-VKmA&start_radio=1&t=24s)。

 ともあれ、この希代のミュージシャンに哀悼の意を表したい。

2023年1月7日土曜日

山下洋輔の『ドファララ門』に読み耽る

  私はミュージシャンとしての山下洋輔(1942-)にはあまり興味はない。もっとはっきりいえば、彼の音楽が肌に合わないのだ(言うまでもないが、これはあくまでも私個人の好みの問題にすぎない)。が、文筆家としての山下洋輔には賛辞を惜しまない。今も自伝的エッセイ『ドファララ門』(晶文社、2014年 https://www.shobunsha.co.jp/?p=3402)を読んでいるが、面白くて仕方がない。

 同書はかなり前に出ているのだが、私がその存在に気づいたのは昨年のこと。そして、「これはいつか読まねば!」と思っていたのだが、先日たまたま図書館で目にして迷わず借りて帰り、読み始めたわけだ。

 「自伝的エッセイ」とはいうものの、紙幅の多くが割かれているのは(上記リンク先の紹介にあるように)「母方の」ルーツであり、それがまた何とも壮大な物語である。そうしたものを凡人が書くとイヤミになりかねないところだが、山下一流の語りはそんなことを微塵も感じさせず、とにかく読ませるのだ。いや、すごいものである(と思うにもかかわらず、山下の音楽を聴いてみたいという気にはならない。が、それはつまり、彼の文筆が決して余技などでない――音楽家としての活動からは独立した価値を持つ――ことの証しだと言えまいか)。

 

 「よく生きる」のは決して容易ではないが、「よく死ぬ」(うまく人生の幕引きをする)こともそれに劣らず難しいことだなあとこのところ実感させられている。私自身はまだ当分死ぬ予定(というのも変な言い方だが……)はないが、それでも今から少しずつ準備しておかないといけないと思い始めている。もちろん、何よりもまず「今」を充実させ、そのときが来ても後悔しないようにすることが第一であるが。

2023年1月1日日曜日

2023年の弾き初め、聴き初め

  2023年が始まった。昨年はかなりぱっとしない年だったので、今年はせいぜい仕事や勉強に励みたい。なんと言っても『ミニマ・エステティカ』の完成を! そして、もう1つの重要主題についても成果を上げたいところだ。

 今年の「弾き初め」はJ. S. バッハの《平均律クラヴィーア曲集》第2巻第9番のフーガ。うまく弾けないので何度か繰り返してみたが、そのたびに心がすっきりしてくる。

 そして、「聴き初め」はボリス・ブラッハーの《チェロ協奏曲》(1964)(https://www.youtube.com/watch?v=cwitPeYpwNQ)。これがまたなんとも飄々とした音楽なのだが、決してお気楽ではない。戯れつつもどこか醒めており、聴く者にも同様な構えを自然と取らせてしまう。が、元旦だからこそ、そして、こんな世の中だからこそ、こうした音楽を聴くのがよいように思う。

 今年は(自分に関心のある人についていえば)ラフマニノフとレーガーの生誕150年、カゼッラとヴァレーズの生誕140年、ブラッハーの生誕120年、ルトスワフスキとブリトゥンの生誕110年、リゲティの生誕100年、プロコフィエフの没後70年、ヒンデミットとプーランクの没後60年、そして、ジャン・フランチェスコ・マリピエロの没後50年。