2020年7月31日金曜日

嫌いではないのだが、好きにはなりきれない、でも……

 マルタ・アルゲリッチ(1941-)の演奏を私はあまり好まない。いや、精確に言えば、嫌いではないのだが、好きにはなりきれないのだ。

 今日も彼女がドイツ・グラモフォンに録音したショパンのアルバムを久しぶり聴いてみた。自由奔放でありながら決して野放図ではなく、しかるべき方向性を持つ演奏にはただただ圧倒される。が、なぜか、完全に説得はされない。何かしらもやもやが残るのだ。とはいえ、たまに彼女の演奏を聴いてみたくなるのだから、まことに不思議である(かつて同じドイツ・グラモフォンの大看板だったマウリツィオ・ポリーニに対しては、そんな気持ちにはまずならない。もちろん、これはあくまでも私個人の好みにすぎず、ポリーニが優れたピアニストであることを否定したいわけではない)。

 以前、一度だけアルゲリッチの実演を聴いたことがある。独奏ではなく、ベートーヴェンの第1協奏曲だった(アンコールでシューマンの〈夢の縺れ〉を弾いてくれた)。もはや解釈の良し悪しなど問題ではなく、そこに顕現しているものにただただ打たれた。「なるほど天才というのは数こそ少ないかもしれないが本当にいるものだなあ」とつくづく思った次第だ(ちなみに、これまで実演であれこれ聴いた演奏家で、その音楽や技に震撼させられた人はいろいろいるが、「これは天才だ!」と私が感じた人はこのアルゲリッチ以外には1人しかいない。まあ、これは私の出不精のしからしむるところでもあろうが)。

2020年7月30日木曜日

「ピアノ抜粋曲」とはこれいかに

 三島憲一の名著『ニーチェ』(岩波新書、1987年)を久しぶりに再読していたところ、次の些細な一節に引っかかった。ニーチェがヴァーグナーの音楽に出会ったときのことを述べた件の中にこうあるのだ。「最初に楽譜を手に入れた『トリスタン』のピアノ抜粋曲」(同書53頁)と。「ピアノ抜粋曲」とはこれいかに。

 そこで、西尾幹二のやはり名著『ニーチェ 第一部』(ちくま学芸文庫、2001年)を引っ張り出してきて、同様の箇所を見ると、そこではニーチェ自身の言葉が引かれていたが、訳文はこうだ――「トリスタンの抜粋ピアノ曲」(同書、256頁)。やはり「抜粋曲」である。

これは捨て置けないので、西尾本での出典たるニーチェの『この人を見よ』の当該箇所を見てみた。すると、こうなっていた:’Klavierauszug des Tristan’de Gruyter社のKritische Studienausgabe6巻のp. 289。なお、西尾は『この人を見よ』についてはこの版に否定的な評価を下しているが……)。これで疑問氷解である。正解は「トリスタンのピアノ・スコア」だ。

三島や西尾ほどの碩学でドイツ語の達人でさえ、ちょっと自分の専門分野から外れるとこうした間違いを犯す(この両氏の著作や翻訳からは多くを教わっており、感謝しこそすれ、揚げ足取りをして愚弄するつもりなど私には毛頭ない)。となると、浅学非才の私などいったいどれほど多くの間違いを翻訳でしていることやら……。ああ、恐ろしい。ともあれ、気をつけねばなるまい。

2020年7月29日水曜日

音楽科教育の「邦楽尊重」の影響やいかに?

 日本の学校の音楽科教育ではある時期以降、この国の伝統音楽の教育にもそれなりの力を割くようになっている(私が教育を受けた頃はそうではなかった)。では、その成果なり影響なりは出ているのだろうか? 音楽教育界では何かしらこの点についての調査はなされているのだろうが、まあ、そう短期間では本当の影響はわかるまい。が、いずれ、そうした影響が何らかの目に見えるかたちで出てくるのか、それとも出てこないのか――私はそれにかなり興味を抱いている。


 以前、ここで武満の《弧》のスコアの段数について「本人が『100段』云々と語っているが、これは『白髪三千丈』の類の物言いである」と述べたが、この点について若干の訂正を。昨日、大学の図書館から《弧》第1部のスコアを借りてきたのだが、その第2曲〈孤独〉には80段(!)を要する箇所があった。いやはや……。「80段ならば、100段と言っても誇張にはあたらない」ととるか、「いや、やはり誇張だ」ととるかは、その人次第ということで。