2020年11月30日月曜日

もっとお金をかけずに済ませる

 コロナ禍による経済の低調ぶりは今現在もさることながら、もっとずっと先のことにも少なからぬ影響を及ぼすはずだ。西洋(芸術)音楽の世界(業界)などは、まず間違いなくそうだろう。すると、「今を何とか乗り切る」こともさることながら、「これから」のための大きな構造転換が欠かせまい。

その1つのポイントが、「もっとお金をかけずに済ませる」ことだろう。それはたんなる「コスト削減」ということではなく、現実的に維持可能な範囲内で最良のものを目指す、ということであり、音楽に関わる種々の考え方や慣行(のみならず、「生き方」)を必要に応じて大きく改める、ということだ。当然、その結果、これまでは可能だったことが叶わなくなるということがいろいろ出てこよう。が、それを嘆くよりも、「できること」をした方が遙かによいし、その中で新たなものも生まれてくるに違いない。(何度も繰り返して恐縮だが)「危機は好機なり」だ。

 

2020年11月29日日曜日

かつて聴衆を憤らせた作品が

 シェーンベルクの《清められた夜》の初演時に聴衆は憤った。が、それには無理からぬところがある。当時としては剣呑な音づかい、そして、30分近くかかる全曲の最後の最後まで解決をじらしにじらすさまは、平均的な聴き手には何かもやもやしたものを感じさせずにはいなかっただろう。が、今となってはこの曲にそこまで憤る人はいまい。もはやそれはほぼ何の抵抗もなく聴ける「古典」になってしまっている。

 もっとも、そのように「何の抵抗もなく聴ける」耳は、もしかしたら、この曲のドラマの一面を聴き損なっているのかもしれない。作曲者は意図的に刺激的な音を用い、解決もじらしにじらし続けたはずであり、それが作品のドラマにとってしかるべき意味を持っていたはずなのだから。にもかかわらず、それに耳が「引っかかり」を覚えないのだとすれば……。

 もちろん、これはこの曲に限ったことではない。今日「古典名曲」として演奏されている多くの作品でも同様なことが起こっているはずだ。そして、それは「聴き手」だけの問題ではなく、「演奏家」も同じ問題を抱えていよう。だからこそ、逆に古典名曲の演奏にはいろいろ工夫しようがあるのだとも言えるが。そして、聴き手の耳は対象に応じて柔軟である必要があるとも……。


 

2020年11月28日土曜日

シェーンベルクの度量の広さ

 種々の証言が示しているようにシェーンベルクは人としてはなかなかの難物だったようだ。とにかく、頑固一徹で自分が絶対に正しいと信じて疑わない(ある知人がシェーンベルクの筆跡鑑定をその道の達人にこっそり依頼したところ、「この男は自分を中国の皇帝だと思っています」との結果が……(ジョーン・アレン・スミス(山本直広・訳)『新ウィーン楽派の人々――同時代人が語るシェーンベルク、ヴェーベルン、ベルク』、音楽之友社、1995年、198頁)。

 ところが、その「頑固さ」は決して何かの「狂信」ではなく、自分の流儀と異なるものでも「よい」ものはよいと認めるだけの度量の広さがシェーンベルクにはあった。たとえば、ガーシュウィンを高く評価し(彼は「テニス友だち」でもあった)、チャイコフスキーに対して「おお、何と驚くべきシンフォニストだろう――このオーケストレーション――このオーケストラの響かせ方!」と賛辞を惜しまない(前掲書、127頁)。そして、そうしたシェーンベルクの態度は彼自身の音楽作品にも何かしら表れているように私には思われる。厳しい音楽ではあるが、「芸術は万人のものではありません」などと本人が言うほどには必ずしも排他的ではない――と、最近シェーンベルク作品をいくつかを聴いていたとき、ふとそう感じた(それに比べると、「シェーンベルクは死んだ」と若き日に威勢よく言い放った御仁の音楽(や思考)の方が格段に排他的だと思われる)。